カリフォルニアワインを中心にして長いことお酒を楽しんできました。これからはヨーロッパのワインやお酒を楽しむことに軸足を移していこうと考えています。
川北稔著『砂糖の世界史』
川北稔著
『砂糖の世界史』
岩波書店
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●概要
16世紀から19世紀にかけて、世界中の政治家や実業家が、砂糖の生産や流通ルートをどのように押えるか、という問題に知恵を絞った。
ブラジルやカリブ海の島々には、砂糖生産のために、プランテーションとよばれる大農園がつくられた。こうしたプランテーションには、ヨーロッパ諸国の資本、なかでもイギリスの資本がつぎ込まれ、数千万人のアフリカの黒人が、ここに連れて来られたうえ、奴隷として強制的に働かされていた。
ちなみに、やがて、アメリカ合衆国の南部では、綿花栽培のためのプランテーションで同様のことが行われた。
こんにち、アメリカ合衆国やカリブ海の島々に多くのアフリカ系の人々が住んでいるが、こうして砂糖や綿織物のような「世界商品」は、地球上の人間の配置をすら変えてしまった。
その間、世界の覇権はポルトガルからオランダ、そしてイギリスへと移っていった。

●ブラジル糖の時代=16世紀(強いポルトガル)
1493年、ポルトガルは、遅れて国土をイスラム教徒から取り戻したスペインとはかり、ローマ教皇を仲介者として、勝手に世界を二分することを決定。
これにより南北アメリカ(まだその地理はほとんどわかっていなかったが)などはスペインのもの、アフリカやアジアの大半はポルトガルのもの、ということにされた。
このとき決められた境界線は、「教皇境界線」とよばれているが、地球が球状であることがようやく認識されはじめたばかりの時代なので、それがアジア側ではどのあたりを通るのかもはっきりしていなかった。
ただ、翌年の1494年、早くもポルトガルがこれに異議を唱え、境界線が少しずらされて、中南米でもブラジルだけはポルトガル領ということになった。
のちにポルトガルが、大西洋をこえて行われた奴隷貿易の中心になったのは、このような事情による。
他方、スペイン人は、アフリカに拠点がなく、奴隷はポルトガル人やイギリス人、フランス人から買うしかなかった。
砂糖きびの生産は、地中海からアメリカに、中南米へとつぎつぎに移動していき、16世紀をつうじて、ブラジルがその中心となった。
労働力としての奴隷をアフリカで獲得できたポルトガルは、砂糖プランテーションをつくることが容易だったからである。

●カリブ海時代のはじまり=17世紀(強いオランダ)
17世紀に入ると、世界をまたにかけて活躍しはじめたオランダ人が媒介して、砂糖きびはイギリス領やフランス領のカリブ海の島々に移された。
本当の意味で砂糖が「世界商品」になっていったのは、このころから。
なぜオランダ人が媒介者になったのか。
こんにちのオランダ、ベルギー、ルクセンブルクにあたるネーデルランドは、もともとカトリックの強力なうしろ盾となっていたスペインの支配下にあったが、1581年に独立を宣言して、17世紀の初めには北部の7州(こんにちのオランダ)が事実上、独立に成功。
しかし南部の地域(こんにちのベルギー)は、独立に失敗し、カトリックのスペインの支配が続いた。このため、南部の町や港は急速に衰え、多くのプロテスタントの商人たちが北部のアムステルダムに逃亡し、アムステルダムがたちまち世界経済の中心になった。
アムステルダムを拠点にしたオランダ人は、世界の貿易ルートをおさえ、日本にもやってきた(長崎の出島に商館をもち、江戸時代を通じて日本と貿易した)。
オランダ人は北アメリカや香料の産地として知られていた、いまのインドネシアに進出。
とくにインドネシアでは、ジャワのバンタムに拠点をおき、香料や日本の金など、アジアの富をかき集めて、世界の商業権をおさえるようになったといわれる。
そういうわけで、ポルトガル領であったブラジルにおいてさえ、そこでの砂糖プランテーションの多くが、事実上は、資金の豊かなオランダ商人の手にわたっていた、ともいわれている。

●イギリスでの砂糖大量消費のはじまり=17世紀
砂糖が大量に使われるようになったのは紅茶やコーヒーの普及と関係がある。
1600年、イギリス東インド会社が設立され、同社がイギリスのアジアとの貿易や外交の権利を比と一手に握るようになった。
東インド会社が中国から茶を輸入して、イギリス人が紅茶に砂糖を入れるようになったことで、砂糖の大量消費(といっても上流階級のみ)が始まった。
イギリスで茶の広告が最初に出されたのは1658年。
紅茶に砂糖が入れられるようになったのはこの頃。
17世紀の中ごろのイギリスではピューリタンとよばれた人々が革命を起こし、政権を握った(ピューリタン革命)。
その革命を逃れてフランスに亡命していた前国王の息子チャールズが、1660年に帰国し国王チャールズ二世となった(王政復古)。
彼の妻となったキャサリンはポルトガル王室の出身で、お茶を飲む習慣を彼女がイギリス王室にもちこんだと言われている。
なので、イギリスではお茶を飲むことは、王室で行われている「上品な」習慣ということになり、貴族階級に広まっていった。
茶と砂糖という二つのステイタス・シンボルを重ねることで、砂糖入り紅茶は「非の打ちどころがない」ステイタス・シンボルとなった。

●イギリスで起きた商業革命=18世紀
17世紀前半のイギリス東インド会社は、強力なオランダ東インド会社にまだ対抗できず。
これが一変するのが17世紀中ごろ。
オリバー・クロムウェル(1599~1658)はイギリス東インド会社の組織を世界で最初の株式会社といわれるものにした。
クロムウェルは、世界の貿易を握っていたオランダ人商人を排除するために、航海法という法律を作り、これは補充されたり改正されたりしながら、19世紀中ごろまでイギリスの対外経済政策の基本として維持されていく。
17世紀後半にジャマイカ(クロムウェルが占領させた)で砂糖きびが大量生産されるようになり(世界最大の砂糖生産地となった)、イギリスの砂糖輸入量は飛躍的に伸びた。
1660年代には、砂糖はイギリスの輸入量全体の一割近くを占めるようになり、1700年ごろまでには、さらに倍増し、1770年ごろまでには、さらに4倍に増えた。
砂糖に限らず、17世紀以降、それまでほとんど増えていなかった貿易の総量は、半世紀で3倍ほどに増え、さらに18世紀はじめの60~70年間にも、また数倍に増えた。
その上、トルコの他はヨーロッパ諸国に限られていた貿易相手が、いっきょに変化し、18世紀半ばには、アジアやアメリカやアフリカとの取引が、ヨーロッパのそれに匹敵するほどになっていた。
取引きされる商品も、これまで毛織物の輸出に限られていたのが、綿織物などを含む雑多な製品、穀物、植民地物産の輸出などを柱とするほどになった。
もっとも変化したのは輸入品のうちわけだった。
砂糖、北アメリカのタバコ、インドからの綿織物、生糸や絹織物、中国からの茶など、アジアやカリブ海を含むアメリカからの輸入品が激増。
イギリスは貿易のうえでは、ヨーロッパの中にどっぷり浸かっていたのが、むしろヨーロッパ外世界に築いた植民地帝国のうえに立つ国になったのである。
歴史家はこれを商業革命と呼んでいる

●三角貿易――ヨーロッパとアフリカとカリブ海
たとえば、イギリスのリヴァプールを出発した奴隷貿易船は、アフリカの黒人王国が求める鉄砲やガラス玉、綿織物などをもっていき、それらを西アフリカで奴隷と交換した。
ついで、獲得した奴隷を輸送し、南北アメリカやカリブ海域で売り、砂糖(や綿花)を獲得して、母港リヴァプールに帰った。
この間、約2ヶ月。
この奴隷貿易を中心とする三角貿易によって、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの三大陸は、はじめて本格的に結ばれたのである。
アフリカに対しては悲惨な影響を及ぼした。
働き盛りの青年を中心に多数の人々が連れ去られたアフリカ社会は、発展の力を削がれてしまった。

●イギリス帝国の完成(1763年)
18世紀の中ごろ、イギリスはつぎつぎにフランスへ戦争をしかけ、植民地を増やしていった。
最も大きかった戦争の一つであった七年戦争(1756~1763)でイギリスが勝利して、北アメリカとインドにおけるイギリスの優位を決定的にしたといわれ、英仏両国間で結ばれたパリ条約(1763)はイギリス帝国を完成させた、といわれている。
なお、戦争の主な目的は、南北アメリカとインドにおける植民地の確保であったが、スペイン領の南アメリカ植民地に奴隷を供給する権利をめぐる争いも、重要な意味を持っていた。
スペインは、南アメリカに広い領地をもっており、労働力さえあれば、砂糖をつくれたはずなのに、アフリカに拠点がないため、自前でアフリカ人奴隷を確保することはできなかった。
そのためスペイン政府は、奴隷を買い付ける契約を外国と結ぶこととしたわけだが、奴隷貿易を行っていたイギリス、フランス、オランダ、ポルトガルなどの諸国は、なんとかこの契約を取ろうと必死になっていた。
18世紀のヨーロッパにしばしば戦争が起こった一つの理由がここにあった。
18世紀はじめに起こったスペイン王位継承戦争、ついで勃発したオーストリア王位継承戦争、18世紀中ごろの七年戦争など、いずれもこのことに関係していたのである。

●イギリス帝国の完成(1763年)後のアメリカ独立運動
戦争の連続で財政的に厳しかったイギリスは、アメリカ植民地での同戦争で「植民地の(フランスからの)防衛のためだったのだからその費用は植民地の人々が負担すべきだ」と一方的に課税することを決定。
これに民衆の不満が爆発して、イギリスからの輸入をボイコットする運動を展開した。
1773年には、茶を積んでボストン港に入った三隻のイギリス船に、先住民に扮装した「自由の息子たち」と名乗る集団がひそかに潜入し、積み荷の茶を海中に捨ててしまった、という「ボストン・ティー・パーティー事件」が発生。
これが植民地の人々の反イギリス感情をさらにかきたて、アメリカ独立運動の決定的なきっかけになったといわれている。
9回目の訪問
春分の日に司馬遼太郎記念館へ。
近鉄電車の石切駅~額田駅間は高台から大阪市街地を眺めることができます。
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司馬遼太郎記念館へは八戸ノ里駅から歩いて10分ほど。
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2月12日は司馬遼太郎の命日「菜の花忌」で、駅から記念館まで奇麗な菜の花が立ち並びます。
今回で9回目になりますが、この時期に訪問するのは初めて。

企画展のテーマは、『翔ぶが如く』をめぐるひとびと。
30代前半の頃、後に人生の師匠となるYoshiさん http://miscyoshi.blog87.fc2.com/ の影響で司馬作品に触れることになりますが、初めて読んだ作品が『翔ぶが如く』でした。
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司馬遼太郎はタンポポや菜の花といった黄色い花が好きだったそうです。
写真のように、書斎の前に菜の花を植え、春の開花を楽しみにしていたとのこと。
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『翔ぶが如く』の世界に浸った後、お土産を。
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今回はヨーロッパをテーマにした本を6冊ほど購入しました。
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小冊子をプレゼントされて嬉しかったです。
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日本人とは何か、改めて考えていこうと思います。
那須辰造著『ナポレオン』
那須辰造著
『ナポレオン』
(講談社)
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ヨーロッパの歴史を学んでみようと書店をウロウロしていて目に留まったのがこちらの児童書です。
手っ取り早く簡単に読めそうなので購入。
すいすい読めてナポレオンとその時代背景のイメージが沸きました。
児童書ってすばらしいですね。
これからも色々手に取ってみたくなりました。
以下は備忘記録。
関連する時代背景の出来事も追記しています。

*印はナポレオン関連

1768年
・ジェノヴァ共和国がコルシカ島をフランスに売却

1769年(0歳) 
*コルシカ島で誕生

1772年(3歳)
・プロシア・ロシア・オーストリア間で第一回ポーランド分割が始まる
・田沼意次が老中となる(重商主義的政策、株仲間の激励など)

1774年(5歳)
・ルイ16世がフランス王に即位
・杉田玄白・前野良沢らが「解体新書」を著す

1775年(6歳)
・アメリカ独立戦争始まる

1783年(14歳)
・イギリスがアメリカの独立を認める

1784年(15歳)
*パリの陸軍士官学校・砲兵科に入学

1787年(18歳)
・モーツアルトがチェコでオペラ「ドン・ジョヴァンニ」を製作
・アメリカ合衆国憲法成立
・徳川家斉が江戸幕府第11代将軍となる
・松平定信が老中筆頭になり寛政の改革を行う

1789年(20歳)
・フランス革命が勃発
・ワシントンがアメリカ初代大統領に就任

1790年(21年)
・朱子学以外の学問を禁止する(寛政異学の禁)

1793年(24歳)
*敵艦隊への大砲作戦が成功、准将へ昇進し一躍フランス軍の英雄となる
・ルイ16世、マリー=アントワネットが死刑となる

1796年(27歳)
*ジョゼフィーヌと結婚
*第一次イタリア遠征でオーストリア軍に勝利してイタリア北部に広大な領土を獲得

1798年(29歳)
*イギリスとインドの交易路を遮断するためオスマン帝国領のエジプトに上陸、ピラミッドの戦いで勝利しカイロに入城、エジプト全土を占領した
*海上ではイギリス艦隊に破れ、フランス軍はエジプトに閉じ込められた(2年後に降伏)

1799年(30歳)
*オスマン帝国が支配するシリアに進軍し、ヤッファを占領
*続いてその北の町アッコを包囲するが、頑強な抵抗にあい撤退(アッコ攻囲戦)
・イタリアのボルタが電池を発明

1800年(31歳)
*第二次イタリア遠征(アルプス越え)でオーストリア軍に劇的勝利

1802年(33歳)
・十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著す

1804年(35歳)
*フランス民法典(ナポレオン法典)を公布
*フランス皇帝に即位、ノートルダム大聖堂で戴冠式を行う
・ベートーベンが交響曲第3番「英雄」を作曲する

1805年(36歳)
・イギリスはオーストリア・ロシアなどと第三次対仏大同盟を結成
*トラファルガーの海戦でイギリス海軍に完敗
*アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍を破る
 (同戦いの勝利を記念してパリの凱旋門は建てられた)

1806年(37歳)
*イエナの戦い、アウェルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝しベルリンを占領
*これにより神聖ローマ帝国は崩壊してオーストリア帝国となる
*イギリスへの対抗策として大陸封鎖令を出す
*ポーランドに侵攻し、プロイセン・ロシア連合軍を破る

1807年(38歳)
*フリートラントの戦いでロシア軍を破る
*この頃がナポレオンの絶頂期で、イギリスを除く全ヨーロッパを支配した

1808年(39歳)
*スペイン・ゲリラ連合軍にフランス軍のデュポン将軍が降伏(ナポレオン陸上で初の敗北)
*ゲーテと会う
・間宮林蔵が樺太を探検する

1809年(40歳)
・オーストリアがイギリスと第五次対仏大同盟を結成する
*アスペルン・エスリンクの戦いでオーストリア軍に敗れる
*皇后ジョゼフィーヌと離婚

1810年(41歳)
*オーストリア皇女・マリ・ルイーズと再婚

1812年(43歳)
*ロシア遠征を決行するが冬将軍にも阻まれ大敗を喫する

1813年(44歳)
*ドレスデンの戦いでは同盟軍に勝利するがクルムの戦いで包囲され降伏
*ライプツィヒの戦いで対仏同盟軍に包囲され大敗、フランスへ退却する

1814年(45歳)
*地中海のコルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放される
・ウィーン会議(シェーンブルン宮殿にて)、後継にはブルボン家が選ばれ(王政復古)ルイ18世が王位へ
・イギリスのスチブンソンが蒸気機関車を発明

1815年(45歳)
*エルバ島を脱出し復位、自由主義的な新憲法を発布するが、ワールテローの戦いで完敗(百日天下の終焉)
*セントヘレナ島に幽閉された

1818年(48歳)
・イギリス船が浦賀に来航

1819年(49歳)
・イギリスがシンガポールを占領

1821年(51歳)
*死去
・伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」が完成
・ペリー来航の32年前、明治維新の47年前
司馬遼太郎が描く幕末・明治人物群像~吉田松陰~
1830~59 長州藩士、通称寅次郎。幕末の思想家・教育者。29歳、処刑。

・・・思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構―――大うそ―――であろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはきだすように日本国家論という奇妙な虚構をつくり出し、その虚構を論理化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその虚構のために死に、死ぬことによって自分の虚構を後世にむかって実在化させた。これほどの思想家は日本歴史の中で二人といない。

・・・かれは野山の獄にあったとき、同獄の札つきの悪党どもがことごとくかれを慕い、ことごとく改心したという。
かれは一座の囚人たちに言う。人間にはだれしも長所がある。君はどうやら書がうまい。われわれは君を師匠にして書を学ぼうではないか。などと提案し、書のけいこ中は座をさがってその囚人を師として遇した。俳句ができる囚人がいると、松陰はみなを説いてその囚人の弟子になり教わった。凶悪犯ですら、師匠に立てられた以上は凛然として師匠の気分になるであろう。さらには自分の長所を発見されたうれしさは、たとえようもなかったにちがいない。松陰自身は
「自分は君たちのように芸がない」として、孟子を講じた。松陰にあって人間はじつに平等らしいが、この階級差別観のなさはかれがその思想によって到達したものではなく、その天性ともいうべき人間に対する親切と優しさに根づいているらしい。

・・・(松陰は)おのれの思想を醇化し、すぐさま行動にうつし、行動こそ唯一の思想表現の場であるとする陽明学的体質の人であり、自然、行動と遺著をあわせて考えていかなければ接近できない。
童門冬二著『異才の改革者 渡辺崋山』
童門冬二著
『異才の改革者 渡辺崋山』
(PHP研究所)
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幕末に活躍した人物の中でも、ひときわ異彩を放つ渡辺崋山。
「遠近法」を取り入れて、日本美術史に新境地を開拓した画家として有名な彼だが、実はれっきとした大名家の家老である。
1万2千石の小藩ながら、東海の田原藩の経営再建に尽力し、農政家を招いて領民の生活安定に心を砕き続けた。その手腕は、天保の大飢饉でも領民に餓死者を出さず、幕府から唯一表彰を受けたことからも分かる。
崋山の才能は、それだけに止まらない。江戸藩邸では、高野長英や小関三英など、蘭学者との交流を通じて西洋の新知識まで蓄えた。まさに多才にして「異才の改革者」だったのである。更にその視野は日本を越えて世界にまで向けられたが、幕府の海防政策を批判した容疑で「蛮社の獄」に連座し、49歳で自刃に追い込まれてしまう。
幕末初期の改革者だった崋山は、いかに守旧派と闘い、自らの信念を貫き通したのか? 
時代の先駆者の生涯に学ぶ一冊。
(PHP研究所ホームページより)

昔、茨城県古河市を訪れた際、歴史博物館で、この地の英雄である鷹見泉石(古河藩家老、1785~1858)に関する資料を見学しました。
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この鷹見泉石を描いたのが渡辺崋山です。
そして、鷹見泉石に鎮められたのが大塩平八郎(1837年、大塩平八郎の乱@大坂)。

大塩平八郎終焉の地は、時々夜の散歩をしている場所です。
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渡辺崋山と大塩平八郎はともに佐藤一斎という人の門人で接点があったようです。
本を読んで歴史状の人物同士がつながってくると楽しくなってきますね。

先日、アメリカ支社の米人が来日。
3次会までテキーラを飲みながら楽しく過ごして、みっちり英会話をしましたが、思っていた以上に言葉が出ず、自分を戒める意味を込めて、帰宅後に腹筋100回の体罰を課しました。
・・・ということで、読書の時間を少し削り、英語学習に軸足を移そうか、と考えています。
両方やれや、という話ですが。