カリフォルニアワインを中心にして長いことお酒を楽しんできました。これからはヨーロッパのワインやお酒を楽しむことに軸足を移していこうと考えています。
桜2018
30年ぶりに少年期を過ごした街へ。
食料品ストア、塾の帰りにマンガを立ち読みしていた本屋さんは別のお店に変わっていましたが、駅前のロータリーは昔の雰囲気が残っていました。
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市の開発が進み、人口が増え、バスの路線も大幅に増えていました。
昔からあった路線に乗り、住んでいた辺りを散策。
泥団子作り、ケイドロ、ローラースケート、野球、サッカー等たくさん遊んだ記憶がよみがえります。

木々が高くなっていて驚きました。
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秘密基地ががあったのはこの辺りかな。
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桜2018
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小学校まで通学路を歩いてみました。
いくつかのお店や歯医者は昔のままで懐かしく、お金持ちが建てたんだろうなあ、と話していた大きな家の一階は美容院になっていました。
小学校の柵の外から自分たちが制作した卒業作品を見て感慨にふけったり。

小学校近くのバス停前付近。
何でもない風景ですが、ここからよくバスに乗っていたので、自分にとっては懐かしい場所です。
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歩いていると自分がその場所にいるのが不思議な感じがして、タイムスリップしてしまったような感覚になりました。
これ迄に住んだいくつかの街も懐かしむ時が来るのでしょうね。
25年ぶりに広尾へ
所用があって広尾へやってきました。

日比谷線の広尾駅で下車。
この地下鉄も今は東京メトロといいますが、自分にとっては当時の営団地下鉄という名称のほうがしっくりきます。
お爺ちゃんお婆ちゃんがJRよりも国鉄のほうが言いやすい、というのと同じなのかな。

有栖川宮記念公園内の階段を上っていくと都立中央図書館があります。
高校を卒業して、四谷の予備校で授業を受けた後、同じクラスの浪人仲間でここへやってきて勉強をしていたのが25年ほど前。
日本史を勉強していて機械的な暗記学習に飽きてきた時に、理解しにくい時代背景等を図書館で調べると気分転換にもなり、すとんと理解も深まって一石二鳥、そんな話をしていたのも青春時代の一コマです。
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この特徴的な木の形も25年前のまま。
この辺りにはニワトリが20~30羽ほどいて、陽が落ちてくると、幹が水面と平行になっているところ(写真中央)に2~3羽とまっている光景が見えたのですが、ニワトリの姿は1羽も見当たらず。
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多くの外国人がやって来る有栖川宮記念公園のすぐそばにあるスーパー。
この辺りには各国の大使館が点在していることもあり、歩いていると外国人居住者とよくすれ違います。
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広尾から渋谷へ。
桂花ラーメンでターロー麺を頂きます。
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麻布で美味しいたい焼きを食べたかったのですが、それはまたの機会にお預けです。
小田原城
小田原城を訪れました。
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秀吉と家康で挟むような配置だったんですね。
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敵の水軍にずらりと並ばれて海上も封鎖されたとのこと。
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小田原駅&丹沢方面
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北条氏が降伏して、秀吉の天下統一が完成しました。
司馬遼太郎はサラリーマンは秀吉ではなく、家康を手本にせよ、と述べています。
それはまた別の機会に。
本年もよろしくお願いします
元旦にスカイツリーへ。
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地上450mの展望台からは奇麗な富士山を望めました。
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関西に戻る新幹線からも素敵な景観が。
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天気も良く、いい年末年始を過ごせました。

本年もよろしくお願いします。
弘道館を訪れました
週末に水戸へ。
旧水戸藩の藩校である弘道館を訪れました。

弘道館は水戸藩第9第藩主、徳川斉昭(1800~1860)が推進した藩政改革の重要施策の一つとして開設されました。
落成したのは天保12年(1841)。
明治維新の精神的指導者といわれる吉田松陰(1830~1859)は、1851年に弘道館を訪れ、徳川斉昭の腹心の部下であった水戸藩の学者、会沢正志斎と面会して、その思想に影響を受けたと言われています。
ここには最後の将軍、徳川慶喜(徳川斉昭の七男)が5歳から11歳まで学び、大政奉還後には4か月間の恭順謹慎生活を送った場所(至善堂)も残されています。

さて、このたび弘道館を訪れるにあたり、司馬遼太郎著『この国のかたち(1)』と『最後の将軍』を読み返して「水戸」のイメトレをしておきました。
以下引用です。
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朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んずるという風は、それが官学化されることによって、弊害をよんだ。
(中略)
日本の場合も、徳川幕府は朱子学をもって官学とした。
ただ日本の場合、幸いにも江戸中期、多様な思想が出てきて、朱子学が唯一のものではなくなった。
(中略)
が、日本でも一カ所だけ、おそるべき朱子学的幻想が沈殿して行った土地がある。水戸だった。
水戸黄門といわれた徳川光圀は、早くから日本史編纂の大事業を企てていたが、たまたま明の遺臣朱舜水が異民族王朝である清から逃れて亡命したのを手厚く保護した。
こういう気分の中で、光圀は学者を集めて修史事業をつづけ、その没後もつづけられた。事業は水戸徳川家の財政を圧迫しつつも二百数十年も継続したのである。その気長さにおいて、日本史にまれな偉観であるといっていい。
その修史態度は史料あつめや、史籍の校訂、考証においてすぐれていたが、しかし記述にあたっては“義理名分”をあきらかにし、忠臣叛臣の区別を正すという徹底的な宋学価値観の上に立ったために、後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。
ただ、この事業によって幕末、水戸が朱子学的尊皇攘夷思想の中心的な存在になったことはたしかである。
要するに、宋学の亡霊のようなものが、古爆弾でも爆発したように、封建制の壁をぶちこわしてしまった。
もっとも、それによって開かれた景色が滑稽なことに近代だった。この矛盾が、その頃もその後もつづき、いまもどこかにある。

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紀・尾両家については主筋という実感があるが、水戸家に対してはたれしもがかるい敵意と根づよい疎外の念をもっている。ひとつには水戸家は家康以後の血が薄いということもあり、ひとつには水戸家が、第二代の黄門光圀いらい、尊王思想の淵叢(えんそう)になっているということもある。水戸家は歴代、多大な藩費をつかって在野の学者をあつめ、大日本史を編纂しつづけている。大日本史の歴史観は尊王賤覇(そんのうせんぱ)であり、京都朝廷を尊び、武家政権をいやしむ。
(中略)
「代々、ご謀反のお家筋である」
と、徳川旗本はばく然と水戸をそうみている。幕府知識人のあいだでささやかれているところでは、水戸家に水戸黄門以来の秘密の言い伝えがあるという。「もし江戸の徳川家と京の朝廷のあいだに弓矢のことがあればいさぎよく弓矢を捨て、京を奉ぜよ」ということであった。この秘伝は単にうわさだけでなく事実であることが、後年、慶喜の口からでている。

以上引用。

弘道館
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徳川斉昭、徳川慶喜親子の像。
徳川慶喜は5歳から11歳まで弘道館で学びました。
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正庁、正席の間。
藩主が出座する正式の間です。藩主が臨席して試験や諸儀式が行われました。
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至善堂、御座の間。
藩主の休息所です。明治元年に徳川慶喜が恭順の意を表し、静かに朝廷の命を待ちました。
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慶喜の恭順ぶりは日とともに徹底の度をくわえた。二月十二日、ついに江戸城を出て上野寛永寺大慈院で謹慎し、罪を待つ姿勢をとった。さらに四月十一日、勝海舟をして江戸城を明けわたしめ、官軍が入場する朝、慶喜は上野の大慈院を出、謹慎地の水戸へむかうべく、江戸を去った。
翌明治二年九月、慶喜は謹慎を解かれ、同時に時勢からもわすれられた。その前後、慶喜は水戸から、徳川の新封地である静岡に移っている。
(『最後の将軍』より引用)

徳川慶喜がその当時に使用していたものと伝えられる長持ち。
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弘道館に保管されてある大日本史。
徳川光圀の命により明暦3年(1657)に編纂が着手され、明治39年(1906)に完成しました。
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明治22年(1889)に撮影された徳川慶喜(左端)。
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葬儀は、三十日の午後、徳川家菩提所である東京上野の寛永寺でおこなわれた。歴代将軍の葬儀は、家康いらい天台宗と浄土宗の僧による仏式でとりおこなわれるのが慣例であったが、しかし慶喜のばあいはその遺志により神道の様式をとった。神道は水戸家相伝の宗教であり、慶喜は水戸人として自分の死をおくられたかったのであろう。
(『最後の将軍』より引用)

徳川慶喜が没したのが大正2年(1913)ですが、その年に自分の祖父が生まれました。
そう考えると、結構最近の人のような気がして不思議に感じます。

司馬遼太郎の幕末ものをまた読みたくなってきました。