2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
小田原城
小田原城を訪れました。
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秀吉と家康で挟むような配置だったんですね。
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敵の水軍にずらりと並ばれて海上も封鎖されたとのこと。
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小田原駅&丹沢方面
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北条氏が降伏して、秀吉の天下統一が完成しました。
司馬遼太郎はサラリーマンは秀吉ではなく、家康を手本にせよ、と述べています。
それはまた別の機会に。
本年もよろしくお願いします
元旦にスカイツリーへ。
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地上450mの展望台からは奇麗な富士山を望めました。
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関西に戻る新幹線からも素敵な景観が。
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天気も良く、いい年末年始を過ごせました。

本年もよろしくお願いします。
弘道館を訪れました
週末に水戸へ。
旧水戸藩の藩校である弘道館を訪れました。

弘道館は水戸藩第9第藩主、徳川斉昭(1800~1860)が推進した藩政改革の重要施策の一つとして開設されました。
落成したのは天保12年(1841)。
明治維新の精神的指導者といわれる吉田松陰(1830~1859)は、1851年に弘道館を訪れ、徳川斉昭の腹心の部下であった水戸藩の学者、会沢正志斎と面会して、その思想に影響を受けたと言われています。
ここには最後の将軍、徳川慶喜(徳川斉昭の七男)が5歳から11歳まで学び、大政奉還後には4か月間の恭順謹慎生活を送った場所(至善堂)も残されています。

さて、このたび弘道館を訪れるにあたり、司馬遼太郎著『この国のかたち(1)』と『最後の将軍』を読み返して「水戸」のイメトレをしておきました。
以下引用です。
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朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んずるという風は、それが官学化されることによって、弊害をよんだ。
(中略)
日本の場合も、徳川幕府は朱子学をもって官学とした。
ただ日本の場合、幸いにも江戸中期、多様な思想が出てきて、朱子学が唯一のものではなくなった。
(中略)
が、日本でも一カ所だけ、おそるべき朱子学的幻想が沈殿して行った土地がある。水戸だった。
水戸黄門といわれた徳川光圀は、早くから日本史編纂の大事業を企てていたが、たまたま明の遺臣朱舜水が異民族王朝である清から逃れて亡命したのを手厚く保護した。
こういう気分の中で、光圀は学者を集めて修史事業をつづけ、その没後もつづけられた。事業は水戸徳川家の財政を圧迫しつつも二百数十年も継続したのである。その気長さにおいて、日本史にまれな偉観であるといっていい。
その修史態度は史料あつめや、史籍の校訂、考証においてすぐれていたが、しかし記述にあたっては“義理名分”をあきらかにし、忠臣叛臣の区別を正すという徹底的な宋学価値観の上に立ったために、後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。
ただ、この事業によって幕末、水戸が朱子学的尊皇攘夷思想の中心的な存在になったことはたしかである。
要するに、宋学の亡霊のようなものが、古爆弾でも爆発したように、封建制の壁をぶちこわしてしまった。
もっとも、それによって開かれた景色が滑稽なことに近代だった。この矛盾が、その頃もその後もつづき、いまもどこかにある。

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紀・尾両家については主筋という実感があるが、水戸家に対してはたれしもがかるい敵意と根づよい疎外の念をもっている。ひとつには水戸家は家康以後の血が薄いということもあり、ひとつには水戸家が、第二代の黄門光圀いらい、尊王思想の淵叢(えんそう)になっているということもある。水戸家は歴代、多大な藩費をつかって在野の学者をあつめ、大日本史を編纂しつづけている。大日本史の歴史観は尊王賤覇(そんのうせんぱ)であり、京都朝廷を尊び、武家政権をいやしむ。
(中略)
「代々、ご謀反のお家筋である」
と、徳川旗本はばく然と水戸をそうみている。幕府知識人のあいだでささやかれているところでは、水戸家に水戸黄門以来の秘密の言い伝えがあるという。「もし江戸の徳川家と京の朝廷のあいだに弓矢のことがあればいさぎよく弓矢を捨て、京を奉ぜよ」ということであった。この秘伝は単にうわさだけでなく事実であることが、後年、慶喜の口からでている。

以上引用。

弘道館
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徳川斉昭、徳川慶喜親子の像。
徳川慶喜は5歳から11歳まで弘道館で学びました。
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正庁、正席の間。
藩主が出座する正式の間です。藩主が臨席して試験や諸儀式が行われました。
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至善堂、御座の間。
藩主の休息所です。明治元年に徳川慶喜が恭順の意を表し、静かに朝廷の命を待ちました。
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慶喜の恭順ぶりは日とともに徹底の度をくわえた。二月十二日、ついに江戸城を出て上野寛永寺大慈院で謹慎し、罪を待つ姿勢をとった。さらに四月十一日、勝海舟をして江戸城を明けわたしめ、官軍が入場する朝、慶喜は上野の大慈院を出、謹慎地の水戸へむかうべく、江戸を去った。
翌明治二年九月、慶喜は謹慎を解かれ、同時に時勢からもわすれられた。その前後、慶喜は水戸から、徳川の新封地である静岡に移っている。
(『最後の将軍』より引用)

徳川慶喜がその当時に使用していたものと伝えられる長持ち。
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弘道館に保管されてある大日本史。
徳川光圀の命により明暦3年(1657)に編纂が着手され、明治39年(1906)に完成しました。
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明治22年(1889)に撮影された徳川慶喜(左端)。
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葬儀は、三十日の午後、徳川家菩提所である東京上野の寛永寺でおこなわれた。歴代将軍の葬儀は、家康いらい天台宗と浄土宗の僧による仏式でとりおこなわれるのが慣例であったが、しかし慶喜のばあいはその遺志により神道の様式をとった。神道は水戸家相伝の宗教であり、慶喜は水戸人として自分の死をおくられたかったのであろう。
(『最後の将軍』より引用)

徳川慶喜が没したのが大正2年(1913)ですが、その年に自分の祖父が生まれました。
そう考えると、結構最近の人のような気がして不思議に感じます。

司馬遼太郎の幕末ものをまた読みたくなってきました。
浅間山・黒斑山・水ノ塔山・篭ノ登山・桟敷山・湯の丸山
北陸新幹線の軽井沢駅と佐久平駅の間から浅間山を眺めました。
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山に入りたい!
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浅間山・黒斑山・水ノ塔山・篭ノ登山・桟敷山・湯の丸山、このあたりの山域で90年代によく遊んでいました。
地形図を持たないでも不安じゃないのはここくらいかな。

長男が生まれたとき、奥さんに
「名前は『湯の丸』にしよう」
と提案したのですが即刻却下。

しばらくご無沙汰しているので関東に転勤になったらまた歩きに行きたいです。
日光街道で歴史にふれる
茨城県古河市を訪問しました。
古河市観光協会のホームページより古河市の歴史を抜粋して紹介します。

室町時代
当初鎌倉にあった関東公方が、室町時代の康正元年(1445年)、足利成氏の代に室町幕府と対抗し下総古河に移り、古河公方として知られるようになりました。
以来、5代にわたり130年余りを統治しました。

江戸時代
徳川幕府により譜代大名11家がめまぐるしく交替し、古河城は徳川将軍が日光東照宮参拝の折の宿泊場所にもなりました。
また、奥羽街道・日光街道の宿場町としても発展しました。現在も市内各所に武家屋敷や商家の町割、由緒ある神社仏閣があって、当初の風格がしのばれます。

以上引用。

空いた時間で駅周辺を散策しました。
日光街道。日光方面を望みます。
ここを大名行列が通ったようです。
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武家屋敷跡
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古河歴史博物館へ。
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古河の英雄、海外に精通した鷹見泉石(古河藩家老、1785~1858)に関する幕末資料は見応えがありました。

鷹見泉石
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歴史博物館に隣接した鷹見泉石記念館
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隆岩寺
「徳川時代最初の古河城主小笠原秀政が、岡崎三郎信康の菩提のために開基した寺です。信康は家康公が18歳の時、正室・瀬名姫(築山御前)との間に生まれた徳川家康の嫡男です。天正 7年(1579)織田信長の命により、母の築山御前とともに命を奪われました。信康の長女の登久姫(峯高院)は小笠原秀政に嫁いでおり、境内には信康の供養塔があります。(古河市観光協会のホームページより引用)」
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この事件、徳川家康を考える際に結構意義深いような気がするので、備忘記録として司馬先生の文章を以下に残しておきたいと思います。

司馬遼太郎著
『覇王の家』
(新潮文庫)

 91~119ページ 閨閥(けいばつ)
120~147ページ 遠州二股の話

武田信玄の死が、京をおさえている織田信長の荷をかるくしたことはすでにのべた。信長にとって日本じゅうにほとんどの地方勢力が敵であったにせよ、当面の強敵は大坂の石山本願寺だけになった。あと、中国と四国の征服が、とりあえずの課題としてのこっている。
天正4年、かれの印形でいう「天下布武」の第一期の事業がおわりにちかづいたという事態を背景にして、かれは岐阜城から近江の湖東の安土城に根拠地をうつした。
これより前、信長はその娘徳姫を家康の長男信康に嫁せしめた。
(中略)
徳川信康を城主とするこの三河岡崎城ほど、婦人の風景として複雑な世界はない。
まず、築山殿(徳川家康の妻)の駿河勢がいる。駿河は室町幕府のはじめのころから守護大名の今川氏が公家化していたために、気のきいた侍はみな連歌の心得などがあり、婦人の行粧も京風の渋さがある。築山殿とその侍女たちにもその色合いがあったが、なにぶん郷国も実家もほろんでいるために、道具なども剥げ、衣装は粗末になり、もとが渋いためにかえってしおれてみえた。家康がそれを見てやるべきであったが、家康という人物は、妻妾に金をつかうという点では、極端に吝(しわ)かった。
(中略)
――われらを乞食のような暮らしに追いこめるのか。
と築山殿はいった。
岡崎城にいる彼女は、かつては駿河の京風を誇りにして(徳川家康の地である)三河者を見くだしていたが、尾張からの若嫁(織田信長の娘徳姫)がくるにおよんで逆転し、尾張衆のきらびやかさからみれば駿河衆は彼女のいうとおり乞食のようにみすぼらしい。
(中略)
尾張衆の華花は、信長が茶ノ湯という、堺の金力を背景にした町人文化に凝っているだけに、徳姫らの衣装もその影響によって奇抜で金々したものであり、その点、駿河の公卿風の感覚とあわない。
(中略)
信長はむろん、この婿(徳川信康)のこの評判(長篠の戦での髙い功績)をきいている。隣国の英雄は自国にとっての災禍であるということが、疑う余地もなく時代の公理になっている。信長には愉快なことではなかった。かれ自身が、自分の舅斎藤道三の美濃を、道三の死後うばってしまった経験をもっている。
(中略)
滅敬(めっけい・武田家にながくとどまっていた唐の医師)は、武田家のことなどを築山殿に話した。築山殿も、それを聞きたがった。駿河今川家はむかしから武田家との関係がふかく、築山殿にすれば、徳川家や織田家といった出来星大名の家とはまるでちがったものというあたまがあり、親近感もつよい。
(いっそ武田家と連合すれば)
と、この政略結婚で妻になった女性は、ついそういう政治的妄想をもった。子の信康を立てて、武田・徳川同盟を成立させるのである。むろん織田は捨てる。
(中略)
信康にこの密謀をうちあければ、かれはおどろいてとめるにちがいない。築山殿としては、まず事実を積みかさね、信康のまわりにのっぴきならぬ条件をつくりあげてしまうほうがよいとおもった。
それには、まず信康と(尾張衆、信長の娘である)徳姫を不和にすることである。女がいい。
信康に寵姫をつくらせることであった。築山殿は、その女の物色をした。女は三河人であってはこの密謀を洩らすおそれがある。
甲州女がのぞましかった。
(中略)
(信康は)別段の抵抗もなく母親(築山殿)のすすめをうけ入れ、この娘を愛した。
(中略)
すぐ徳姫の耳に入った。
「ひともあろうに姑どのがその女をすすめられた。しかも武田に縁故の女である」
という内実が、尾張からきた女中たちの手で知りたしかめられた。もっともそれ以上の秘謀まではこの段階では知られていない。ともあれ、岡崎城内は、徳姫を中心とした尾張系の女中たちと、築山御殿にいる駿河系の女中たちのあいだに、仇敵以上の邪悪な空気がかもされた。
(中略)
彼女(築山殿)は滅敬(めっけい・前述の唐医)をせきたて、これを密使として甲斐に送った。彼女が武田勝頼に示した内容というのは、すでに正気の沙汰ではない。
「信長と家康は、私の手で殺しましょう」
というものであった。
(中略)
ヒステリーであろう。しかししれが昂じてこういう壮大な計略まで幻想し、しかも幻想だけでなく実際にその計画を行動にうつした女性というのは、おそらく史上この築山殿しかいない。
(中略)
――たれも気づくまい。
とおもって密謀をすすめているうちに、おなじ岡崎城内にすむ若嫁の徳姫の侍女団の側に知れてしまったのである。
どのようにして洩れたのか、よくわからない。
(中略)
――あのお姑さまならやりかねぬ。
と勢いこんで(徳姫は)おもった。
(中略)
さらにしらべているうち、築山殿が甲州に脱走する用意をしていること、その秘略については息子の信康をも抱き入れていること、要するに築山殿と信康は織田家に反逆しようとしていることなどを知った。
――まさか信康どのが。
とは、おもわなかった。すでに信康は、母親の御殿ですごし、その御殿でかこっている甲州女を日夜寵愛している。
(中略)
「もはや、信康どのぐるみ、甲州への内通はまぎれもなし」
ということになるのもむりはなかった。憎悪は、人間の想像力を異常に増幅させるものであった。
(中略)
古来、疑獄や政治的事件というものは、そのほとんどが、多分に人間の想像力の産物であった。事実は想像を増幅するためにのみ必要であり、その想像力に国家や集団の憎悪がくわわるとき、白光を発するようにしてかがやく。
築山殿の甲州内通は、根をあらってしまえば単にヒステリー症による妄想であり、その妄想に多少の飛躍的行動(たとえば武田勝頼に手紙を書くような)がともなった程度にすぎない。そこのとは、この事件の発覚後に事件のあらましを知った家康がいちばんよく知っていた。築山殿に対して、この地上でただひとり同上をしたのは家康であった。
「あのひとはああなのだ。それだけのことなのだ。」
と事件後、家康はいった。まわりがさわぎたてずにおきさえすれば、築山殿の密謀はそのまま消し炭火のようにきえたかもしれず、たとえ彼女が甲州へ脱したところで、うっちゃっておけばそれでよかった。彼女が信康を誘いだして母子ともに逃げたとなればそれでやっと政治問題になりうるが、しかし信康は築山殿の密謀をはじめから知らず、聞かされてもおらず、よし聞かされようとも彼が母親と一緒に脱走するようなことはありえない。むしろ説諭し、説諭してきかなければ家康に相談して領内の寺などに入れて十分の監視をおこない、精神の鎮静するのを待つであろう。信康という若者は、気ままなところはあったがそれくらいの処置はてきぱきとやれる男であった。
この一件が、重大な政治問題になったのは徳姫が信康に相談しなかったことである。
(中略)
――父に言い縋って。
と、徳姫はおもった。築山殿と甲州女のあの魔性に大鉄槌をくわえてくれるのは父の信長を措いてない。
(中略)
このころ、家康はこの事態をしらない。かれは浜松城にいる。
その浜松から、この時期、近江安土城にいる信長のもとに使いをした者がある。
家康の家臣団のなかでの筆頭である酒井忠次であった。
(中略)
「これほどの馬、自分(家康)のような分際にはもったいない、天下人(信長)の厩につながるべきものだ」
本気にそう思い、忠次をつかいにして安土城の信長に献ずべくむかわせたのである。
(中略)
「やあ、みごとだな」
と、信長はよろこんでくれた。
(中略)
信長の下瞼のあたりに忠次がはじめて見るほどの赤味が異様なほどにさしのぼっている。信長はあきらかに冷静さをうしなっていた。かれは百も計算し、計算しぬいたすえにいまから忠次を相手にその本題に入ろうとしているのだが、いったん唇から言葉を出してしまえば織田家と徳川家の外交関係はあるいは決裂するかもしれない。織田家の命題に大きなひびが入るかもしれなかった。信長はその危険を賭けていた。頸動脈の上にできた腫物を自分の手でえぐろうとしている男だけが、このときの信長の心事をやっと理解できるかもしれない。
「岡崎三郎(信康)のことだが」
と、信長は家康の子、信長のむすめ婿、岡崎城主、徳川家の後継者であるこの若者の人物評からきりだした。
(中略)
忠次は、信康という男に累年、腹が立ちつづけてきている。この男死ね、と戦場で何度おもったかわからない。
(中略)
信康は、忠次に対し、家累代のオトナとして重んずる作法を、すこしもとらなかった。信康にすれば当然であった。かれはうまれついての徳川氏の後継者であり、かれにすれば父の松平時代から経てきた労苦や、あるいは家康がそのオトナたちや三河の豪族たちからうけた忠誠や援助については、それを知らずともよい。父の家康の地位は三河人の押したてによって浮力を保っている。家康はそれをよく知っている。が、信康はうまれながらの三河人のあるじであった。頭ごなしに三河人どもを追いつかえばよく、殺すも活かすも自在である、とおもっていた。三河人の代表者である酒井忠次からみれば、
――笑止な。
という一言に尽きた。
(中略)
(信康は)大声をあげ、忠次の面目がこのためにつぶれるまでに罵倒した。忠次が信康を憎む以上に信康は忠次を憎んでいた。くすなくとも忠次はそうおもい、
(この人が世を継げば、わが家はあぶないのではないか)
 と、前途に不安を感ずるようになった。わが家が失われるかもしれぬというときにはたとえ相手が主筋であろうと正当防衛を行使するというのが、中世以来、武家という地持ちの伝統的気分であったといえる。忠次は江戸期の武士ではない。
(中略)
 徳姫の手紙が、いま炉のそばにいる信長の懐中にある。信長はそれをとりだしてひらき、条々を読み上げた。信康と筑前殿の行状がやや誇張されてくわしく書かれている。
「いかに――。このとおりか」
と、信長はきいた。
これについて忠次は、それは御前(徳姫)さまの思いすごしでございましょう、信康さまおよび御母公はこれこれのお人柄にて、ひとの誤解はうけやすうございますが、さほどのことはございませぬ、とさえ申しひらけば信長も了解し、まして立場上、信長の一存で無理押しをするようなことはなかったはずであり、のちにも三河人たちのあいだでそう評せられた。そうであったであろう、信長にとっても、ここはかれの外交上の切所であった。
ところが忠次は、
「いちいち心あたりがござる」
と、いってしまったのである。
(中略)
「すみやかに失いまいらすべく三河殿に申しつたえよ」
殺せ、その旨を家康につたえよ、というのである。信長は残忍であった。かれの事業そのものがその精神を必要とした。
(中略)
家康は、元来が小心な男である。
忠次の復命を、狼狽しつつ聞いた。ききおわったとき、体じゅうの血が醋(す)になったようで、目が昏み、その間、一瞬も二瞬も、気をうしなった。
(中略)
結局は、信康と築山殿に死をあたえることになった。
(中略)
家康という男の驚嘆すべきところは、こういう事件があったにもかかわらず、酒井忠次と大久保忠世の身分にいささかの傷も入れず、かれらとその家を徳川家の柱石として栄えさせつづけたことであった。忠次も忠世も、家康のそういうところを知っていたため右のように深刻な皮肉をいわれながらも、反乱も脱走もせずに徳川家の股肱としてはたらきつづけたのであろう。家康が、その妻子を自害させたことよりもむしろこのことが、家康のふしぎさをあらわすものかもしれない。家康という男は、人のあるじというのは自然人格ではなく一個の機関であるとおもっていたのかもしれない。かれの三十七歳のときの事件である。