2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
台南の旅~鄭成功ゆかりの地を散策する~
 台南での週末。
 昨日は時差ボケ修復のため、ゆっくりリラックス、そして終日、台湾の歴史を勉強していました。
 今日は、昨日学んだことを街を歩いて体験します。

 まずは鄭成功編。
その前に、鄭成功について簡単にまとめてみましょう。

鄭成功(1624年~1662年)
・1624年)平戸の中国人貿易商・鄭芝龍と日本人女性・田川松との間に生まれる。
・明の皇帝よりその姓(国姓)「朱」氏を賜ったことから「国姓爺」(こくせんや)と呼ばれる。近松門左衛門の戯曲「国姓爺合戦」の主人公。
・1644年、明朝が滅亡し、中国に清が進出した後、明朝の皇族・遺臣達は、「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、力及ばず1661年に滅亡。鄭成功は台湾に逃れて、「反清復明」を目指す。
・1662年、台湾を占領していたオランダ軍・東インド会社を追放し、「反清復明」の体制を整える。また、法律を定めたり、学枚を興すなど、台湾の興隆に勉めるが、同年、志半ばにして病死。
・強大な清の前に、誰が見ても不利な状況下で、あくまでも明朝に忠誠を近い戦い抜いた精神は多くの人々に共感を与え、台湾のみならず、中国でも英雄視されている。日本にもファンが多い。

 さて。
 ホテルからタクシーで台南の中心街へ出ました。
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 この通りは台湾の英雄、鄭成功にちなんで名付けられました。
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 赤崁楼(ツーカンルー)。
 台南市で最も有名な古蹟であり、台南市のシンボルとなっています。
 鄭成功vsオランダ。
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 1653年、オランダ人はここにプロヴィンシャ城を建造。漢民族に赤崁楼(他にも呼び名はあるようです)という名前で呼ばれています。
 鄭成功は台湾を「反清腹明」の拠点とすべく大陸(中国)よりやって来て、1662年にここプロヴィンシャ城・赤崁楼を攻撃してオランダ(東インド会社)を台湾より追い出しました。
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 当時は今と違い、赤崁楼の目の前は海が広がっていたそうです。
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 鄭成功。
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 降伏し鄭成功へ頭を下げるオランダ人。
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 ガジュマルの木。熱帯という感じがしますね。街を歩いてよく見かけました。
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 五妃廟。
 鄭成功とともに台湾に逃れた明王の五人の妃を祀った廟。
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 明が清に滅ぼされて、五人の妃は王とともに自害しました。
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 廟の説明。ウィキペディアより。
「中国において廟は、祖先の霊を祭る場であるが、墓所は別に存在する。 その為、仏教における仏壇のような位置づけであるが、仏壇とは違い母屋の中には無く、霊廟専用の別棟があった。 祖先を篤く敬う中国では、古代から家中で最も重要な場所とされていた。また、孔子を祀る廟や関羽を祀る廟が各地に多数存在するように、祖先の霊だけではなく、民衆が敬愛する対象の廟を建立して祭っている事もある」

 延平群王祀。(鄭成功は明王より延平群王を任命されました)
 鄭成功が逝去した後、台湾の住民は鄭成功がオランダ人を追い出し、再び台湾を漢民族の土地に戻してこの最果ての地を開拓し、孤立した状況下であくまでも明朝に忠誠を誓った功績及び精神に敬意を表すため、この地に廟を建立しました。
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 殿の内部には鄭成功の像があり、また後殿には鄭成功の母、翁大妃(田川松)の位牌が安置されています。
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 田川松(日本人)。鄭成功は平戸の生まれで7歳まで日本で過ごしました。
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 延平群王祀は鄭成功資料館にもなっていて、中国語、日本語、英語で戦いの様子や鄭成功にまつわるエピソードが紹介されていました。

 隣接された公園。
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 次回は鄭成功関連以外の台南を紹介します。
台湾の歴史2(1945年~2008年)
南京国民政府統治時代(1945年 –1949年)

・太平洋戦争で敗戦した日本は、台湾の領有権を放棄し、戦勝国である中国(中華民国)がその領有権を得る。
・当時の中華民国は蒋介石が率いる国民党が代表政権だっただったが、毛沢東率いる共産党との内戦に疲弊しており、台湾に進駐してきた国民党軍も統治意識などの意識が低く、略奪や粗暴行為が頻発した。
・台湾人は、統治が日本から中国に移ったことを喜んだが、進駐してきた国民党軍のこのような振る舞いを見て「イヌのかわりにブタが来た」などと揶揄した。日本の旧植民地でありながら、現在、日本に対する国民感情が比較的良いのは、一つにはここに起因すると言われている。

台湾国民政府統治時代(1949年 – 1996年)

・共産党との内戦に敗残した国民党は、蒋介石ら多くの政治家、官僚、軍隊が台湾に逃れ、台北を臨時首都とし、中華民国の政権を形成した。
・この時に台湾に逃れた人々を外省人、それ以前から台湾に住んでいた人々を内省人という。
・中国では、中国共産党の中華人民共和国が成立し、毛沢東が主席に就任。
・国民党は、鄭成功の時のように、台湾を反共産党の拠点とした。
・総統である蒋介石は、台湾の日本色を排除する政策をとる。学校教育は徹底した反日教材となり、政治的には、独裁強圧的な政権へとなった。
・こうした政策への反発を抑えるため、国民党政権は知識層を中心とした弾圧事件を相次いで起こし、次第に恐怖独裁的な政権となっていき、世界でも類を見ない40年以上続くことになる戒厳令(戦争時や国の事変に際し、平時の法を停止して、行政権・司法権の行使を軍司令官に委ねる事)が布告されることとなった。
・一方で、戦勝国として国連安保理の常任理事国であった中華民国は、工業の発展や国際化により経済が飛躍的に発展し、国民の生活水準は次第に向上していった。
・鉄道の北廻線や蘇奥港開発など、十大建設が実施され、台湾経済は軽工業から重工業へ発展。
・共産勢力に対抗するためにアメリカは台湾を防衛する意志を固め、蒋介石に種々の援助-美援(美国援助)を与えた。ベトナム戦争が勃発すると、アメリカは台湾から軍需物資を調達、外貨であるドルが大量に台湾経済に流入し、台湾経済は高度成長期に突入。
・中国大陸では中国共産党の支配による治安維持が進み、国としての体裁が整ってきたこともあり、1971年に国連が中華人民共和国を中国を代表する国家として承認、これにより中華民国(台湾)は、このとき国連を脱退。
・この国連の承認は、ベトナム戦争の行き詰まりから米中が国交を樹立したという背景にも起因すると言われている。(しかしアメリカは自由主義陣営保持の観点から台湾関係法を制定し台湾防衛を外交テーゼとしている。)
・中華民国(台湾)は、このとき国連を脱退し、かわって、中華人民共和国がその地位に就いた。 それ以来、台湾は、国際的には中国の一地方として位置付けられることになり、台湾問題は中国の内政問題という位置付けになった。
・日本は田中首相の時代に、中華人民共和国と国交を樹立し、同時に中華民国と断交。
・なお、中華民国の国連脱退後、多くの国は中華民国と断交したが、政治的、経済的に台湾とのパイプの維持を図り、日台間でも、民間の機関という名目で、大使館の役割の担う組織が置かれ、経済的、人的な交流が現在まで続いている。
・1975年に蒋介石が死去。中国では1976年に毛沢東が死去。
・政権が蒋介石の子息である蒋経国の頃になると、情報化社会や国民の所得水準の向上により、国民の批判を政権が押さえつけることは困難になった。
・1987年には戒厳令が解除され、台湾の自由化が始まる。変動相場制でない台湾ドルは大幅に切り上げられ、台湾輸出製品の競争力が一時弱まる。
・1988年に李登輝が国民党主席には選ばれる。初めての台湾人総統。自由化は一段と進み、1996年には中華民国初の普通選挙が行われた。

台湾総統選挙時代(1996年 – 2008年現在)

・李登輝は永年議員の引退など台湾の民主化政策を推進したが高齢のため2000年の総統選には出馬せず、代わって民進党の陳水扁が総統に選出され、台湾史上初の政権交代が実現した。
・陳水扁は台湾の独立路線を採用したため統一派の国民党とたびたび衝突、政局は混迷。
・1997年7月、香港が中国に返還された後、中国の江沢民国家主席は、一国二制度による中台(中国・台湾)統一を望むと演説。
・1998年クリントン大統領は、上海で中国側提示の、アメリカ政府の対台湾政策に対する「三つのノー」(1.台湾独立への不支持 2.一つの中国・一つの台湾、もしくは 二つの中国への不支持 3.台湾による国家名義での国際組織加盟への不支持)を基本的に容認。
・2004年の総統選では国民・民進両党の支持率は拮抗していたが、僅差で陳水扁が再選を果たした。混迷の原因の一つは中国問題で、中国は陳水扁を敵視し、国民党を支持することで台湾政界を牽制しているが、その過度な干渉となると台湾ナショナリズムを刺激し、反中国勢力が台頭するという中国にとっても難しい問題となっている。
・一方で台湾は中国との経済的関係を強化しつつあり、今や中国経済を抜きに台湾経済が成り立たない情況となっている。旗艦産業であった電子産業も中国への工場進出による産業の空洞化が進み、台湾政府は新竹や台南にサイエンスパークを設置して、バイオテクノロジーなどの先端産業の育成を図っているが、欧米との競争もあって情況は楽観できない。
・また経済の知的集約化、サービス化の進展により台北への人口集中が進み地方との格差問題も顕在化している。景気低迷による格差拡大、出生率低下による高齢化、東アジア随一の離婚率の高さなど、社会の成熟による問題も噴出している。
台湾の歴史1(16世紀~1945年)
 台湾へ最近よく出かけるのですが、その歴史を学ぶ機会がありませんでした。とりあえず一夜漬けで勉強したことを記録しておこうと思います。

台湾の開発(1500年代~1623年以前)

・台湾が本格的に開発されるようになったのは16世紀の明朝時代になってから。
・大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航。
・ポルトガル人が台湾を発見。日本への鉄砲伝来(1543年)やザビエルによるキリスト教伝来も、台湾を経由。
・台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが東アジアにおける貿易・海防の拠点とする。
・豊臣秀吉が使者を台湾に派遣し、台湾を支配しようと試みたが失敗。

オランダ植民統治時代(1624年 ~1662年)

・東インド会社が1624年に要塞(現在の台南市)を設ける。ジャワ島から日本への中継地点として台湾を利用。
・1626年にスペインも要塞(台湾島北部)を築く。フィリピンから日本への中継地点として台湾を利用。オランダ勢力に追放される。
・東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集してプランテーションの経営(サトウキビの栽培)に乗り出す。
・1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落。
・進出開始から37年で台湾から全て追放された。

鄭氏政権時代(1662年 – 1683年)

・1644年、明朝が滅亡し、中国に清が進出。
・明朝の皇族・遺臣達は、「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、力及ばず1661年に滅亡。
・その為に、清への反攻の拠点を確保する為、「反清復明」を唱えた鄭成功の軍勢は東インド会社を攻撃。1662年に台湾から追放。
・台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権(現在の台南市を拠点)が史上初めて。
・鄭成功は台湾を「東都」と改名、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台湾を「反清復明」の拠点化を目指したが、1662年中にが病死。
・息子の鄭経が「反清復明」の拠点化を進める。
・反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて1683年に降伏。鄭氏一族による台湾統治は3代23年間で終了。
・台湾開発を促進する基礎を築いた鄭成功は台湾人の精神的支柱「開発始祖」となっている。鄭成功が英雄視されるキーワードは「オランダ政権の追放」「明王朝への忠義心」「台湾の開発推進」。
・なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび徳川幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府側に判断され支援は実現せず。しかしこの戦いの顛末は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国姓爺合戦として戯曲化された。

清朝統治時代(1683年 – 1895年)

・1683年に台湾を制圧、「反清復明」を掲げる鄭氏政権を滅ぼす。
・台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入。
・ただし清朝は、台湾を「化外(けがい)の地」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視せず。(台湾の制圧は鄭氏政権を滅ぼすことが目的で、当初は台湾島を領有する事に消極的であった)
・清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大。現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化への影響大。
・漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。この間、主に農業と中国大陸との貿易によって発展。
・清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。
・19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が進出。
・1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平港や基隆港が欧州列強に開港される。
・1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれ、1884~85年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。これに伴い、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化の為に知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省を新設した。
・台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施。
・1894年に清朝が日清戦争に敗北、翌年に日本に割譲。

日本統治時代(1895年 – 1945年)

・1896年に台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立。以後約50年間、台湾は日本の植民地となる。
・植民地政策により、公共インフラや教育水準はこの時期に飛躍的に向上し、経済的にも発展。
・「中国革命の父」といわれる孫文は、中国の南京で臨時大統領となり、中華民国の成立を宣言。中華民国は、政治腐敗した清朝に代わり、三民主義(中国人の主権の回復、人民主権による共和国の樹立、民衆の生活の安定)を目指した。台湾では、1912年を中華民国元年と称し、一般的には民国元年と記している。
・日本統治時代は、台湾人の日本同化政策により、台湾での学校教育は日本語で行われた。1943年の統計で92%、日本語普及率は71%と非常に高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。
・日本が台湾において行ったインフラ整備や人材育成は、戦後の台湾の経済発展、民主化の成功への礎となっており、台湾人は日本への感謝の気持が強く、台湾人の多くが親日である礎となっている。
・太平洋戦争で敗戦した日本は、台湾の領有権を放棄。
イエローナイフとユーコン
 今年に入って初めてJAL9便(シカゴ~東京)に乗りました。

 シカゴのラウンジで「おにぎり」と「いなり」を食べて(無料です!)、さらに優先搭乗で気分良く機内に入りました。マイレージのステータスがそこそこ上がるといいですね。
 着席するとほどなくキャビン・アテンダントの方が挨拶に来てくれました。

「西院さま、いらっしゃいませ。担当させて頂きます〇〇と申します。どうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願い致します」

 水曜日の出発ということもあって、機内には結構空席が目立ちました。私の席は三列シートの通路側だったのですが、同列には他に乗客がいなかったので、ゆったりとくつろぐことができました。この状態だとエコノミークラスでもビジネスクラスとさほど変わらないですね。とてもお得な感じがしました。

 カナダ上空で綺麗な風景を眺めることが出来ました。
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 上記地図上①の辺り。イエローナイフを少し過ぎたところかな。湖は完全に凍っています。
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 上記地図上②の辺り。
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 同じく上記地図上②の辺り。上下写真に写っているどちらかの川が、おそらくユーコン川です。
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 数年前の夏に下ったのが、上記地図上の矢印の区間。ホワイトホースから約300kmです。この続きをやりたいなあ、と思って何年も経ってしまいました。人生は長いからゆっくり考えようかな。

 ところで昨年、このJAL9便を利用した際の航路は、Mt.Logan(上記地図上で矢印の左下)の南を飛ぶ航路でした。今回はMt.Loganの北側を飛んだわけですが、同じシカゴ発東京行きでも航路が変わるものなんですね。何でだろう?

 昨年11月に撮影したMt.Logan。
旅 JAL Mt.Logan
イースター(キリスト教における復活祭)
 3月23日はイースターの日でした。
 イースターって何?日本人にはあまり馴染みがないかもしれませんね。ネット検索してみると、色々わかりやすい解説が出てきました。

 手短に言うと、イースターとは、キリスト教においてイエスの復活を祝う祭りで、キリスト教最古の儀式なのだそうです。十字架に架けられたイエス・キリストが、数日後に復活したとされていて、それを祝って特別な日(復活祭)が設けました。この復活祭は「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」と決められていて、今年はその日が3月23日だったのです。
 イースターのシンボルは卵とウサギ。生命や復活を象徴するものとして、卵が使われてきたのではないかと言われています。そしてその卵は、ウサギが運んできたとされ、子だくさんのウサギは、古代より、繁栄・多産のシンボルとなっています。
 卵を使ったイースターの風物詩と言えば、カラフルな紙や布やペイントで卵を彩って家に飾ったり、子どものいる家庭では、庭に卵を隠して子どもに探させる「エッグハント」や、ホワイトハウスでも毎年行われることで有名な、丘の上から卵を転がす「エッグロール」、卵をスプーンにのせ、落として割らないように気をつけながら、誰が一番にゴールにつけるかを競うレース「エッグレース」などがあります。また、家族でゆで卵を食べたり、家族や友人など親しい人とタマゴやウサギの形のチョコレートや、中にプレゼントを入れたチョコレート卵を交換し合ったりする風習もあるようです。

 イースターの前日に、ナッシュビル動物園で「エッグハント」を行う、という話を聞いて家族で出かけました。2歳児未満の部は朝の10時半からのスタートです。開始30分前になると、イベントの司会者と動物園のキャラクターが歌って踊って握手して、と場を盛り上げ始めました。
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 カラフルなプラスチックの卵が芝生の上に敷き詰められていきます。
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 合図とともに「エッグハント」スタート。親子で競って卵を拾い上げます。
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 これだけの卵をゲットしました。
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 終了後には、この卵をお菓子やおもちゃに交換してもらいます。
「Good job!」
と微笑まれても、1歳8ヶ月の息子はよくわかっていない様子でした。来年は少しわかるかな。

 今日一番気になったのはキリン?
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