2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
セント・マーチン島の旅2~マリゴとフィリップスバーグ~
 フレンチ・サイド(フランス領)の首都がマリゴです。
 マリゴの湾にはフレンチを中心に洒落たレストランが立ち並び、街の横路地へ入っていくと、カルティエ、フェラガモ(多分、、、)といったブランドショップもいくつか目にしました。

 小さなメインストリート。
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 マリゴのダウンタウン、そして湾のすぐ近くの丘に、1786年に建てられた要塞、セント・ルイス砦があります。
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 ここで砦が建てられた背景を理解するために、簡単にセント・マーチン島の歴史を振り返りましょう。

・1493年にコロンブスの第2回航海時に発見されるまでは、島には、先住民のカリブ族とアラワク族が住んでいた。セントマーチン島というのはコロンブスの命名。
・1631年にオランダが島を占領。ニューヨークとブラジル間における貿易の中継拠点とした。
・1633年にスペインによりオランダが追放される。
・1648年にオランダとフランス連合軍がスペインを追放。島はフレンチ・サイドとダッチ・サイドに分割される。
・その後、19世紀初めまでオランダ、フランスの両国にイギリスも加わり、島の争奪戦が繰り返された。
・1816年に現在の国境が定まる。
・当時はサトウキビの栽培が主産業で、アフリカから連れて来られた黒人奴隷に労働させる農場経営が行われていた。
・1848年にフランス領で、1863年にはオランダ領でも奴隷制度が廃止される。
・現在の住民は奴隷の子孫の黒人がほとんどで、観光客は大半がアメリカ人。

 セント・ルイス砦は「ヨーロッパ列強による主権争いの歴史を現す一つの象徴」なのですね。

 高台にある砦よりマリゴの街を見下ろします。
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 砲台。
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 マリゴからダッチ・サイド(オランダ領)の首都、フィリップスバーグへ向かう途中に、国境があります。写真右側がフランス、左側がオランダ。検問はなく、パスポートも不要です。皆、車でビュンビュンと国境を越えていきます。
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「フレンチ・サイドへようこそ」
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 ダッチ・サイド(オランダ領)の首都、フィリップスバーグ。
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 太陽が出ると海はこんなに綺麗になります。カリブという感じがしますね。
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 カリビアン・クルーズの豪華客船が停泊しています。お客さんのほとんどはアメリカ人とのこと。子供がもう少し大きくなったらクルーズの旅もしてみたいですね。
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 ビーチサイドのバー。
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 カリブ海で最初(1631年)に建てられたオランダの要塞、アムステルダム砦。フィリップスバーグのダウンタウンからちょっと離れた半島の先端に史跡として残されています。
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 オランダがセントマーチン島を占領した1631年というのは、彼等が台湾南部を占領(1624年~1662年)し始めた直後にあたります。オランダが国として最も栄えたのがこの時期で、司馬遼太郎著『街道をゆく~台湾紀行~(1997年第1版発行)』には次のように紹介されています。

「十七世紀のオランダ人ほど活動的だったのは、世界史でもめずらしいことなのではないか。
(中略)
 当時のオランダ人のしごとぶりは、同時代の競争相手の英国人をはるかに凌いで、組織づくりのうまいことと、ティームワークのよさが特徴だった。独立前後、多くの貿易会社が乱立していたのだが、必要とみると、たった一つにまとめてしまった。それが、一六〇二年、議会によって立法された「東インド会社」である。以後、会社が国か、国が会社か、絶妙に表裏をなして機能するようになる。
(中略)
 オランダ時代(台湾における)は、三十八年間でしかなかった。
 大陸では、明王朝が、異民族王朝の清のために亡びようとしていた。
 明王室を援けるべくたちあがったのは海賊の鄭成功である。かれは台湾に拠るべく大挙来襲してオランダ軍を降伏させた。一六六二年である。
 そのころオランダ国は、その繁栄に嫉妬する英国から執拗な海上攻撃をうけつづけており、おなじく一国のみの繁栄をよろこばないフランスからも一六七二年、陸上からの侵攻をうけた。これらの侵攻によって、万灯に風が吹きこんだようにオランダは衰退にむかう。
(中略)
 ともかくも、オランダは十七世紀の栄光の時代の最盛期に台湾にやってきて、衰退がはじまるころに台湾を去った。」

 砲台とフィリップスバーグの湾。
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 次回はセント・マーチン島の山と「世界の絶景100」に選ばれたマホ・ビーチを紹介します。
卯月(4月)のダイエット総括
 標記の件、下記にて報告申し上げます。

<計画>
12/31/07 77.5kg ダイエット開始
 1/31/08 75.0kg
 2/29/08 73.0kg
 3/31/08 72.0kg
 4/30/08 71.0kg
 5/31/08 70.0kg
 6/30/08 69.0kg
 7/31/08 68.0kg
 8/31/08 67.0kg
 9/30/08 66.0kg
10/31/08 65.0kg
11/30/08 65.0kg 維持
12/31/08 65.0kg 維持 ダイエット終了

<実績>
 1/31/08 74.5kg 達成/同月△3.0kg/累計△3.0kg
 2/29/08 72.8kg 達成/同月△1.7kg/累計△4.7kg
 3/31/08 71.8kg 達成/同月△1.0kg/累計△5.7kg
 4/30/08 70.6kg 達成/同月△1.2kg/累計△6.9kg

以上
セント・マーチン島の旅1~到着・ホテル・スーパー散策~
 4月23日から27日まで、セント・マーチン島を旅してきました。
 今日から数回に渡って、島の魅力を紹介しようと思います。
 あいにく天候が悪く、心地よい青空に恵まれたのは到着日と二日目だけでした。この影響で「美しい海を堪能する」という最大のテーマについては100%の満足感を得られなかったものの、見応えのある風景や、文化・歴史、美味しいフランス料理等、大いに楽しむことが出来ました。

 マイアミからセント・マーチン島へ向かう機内から、カリブの海を眺めます。
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 セント・マーチン島。30秒後に着陸します。
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 国際空港に隣接するマホ・ビーチ上空。ビルの7~8階の高さで飛行して、ここから15秒後に着陸します。
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 これをビーチから撮影するとこうなります。(ウェキペディアより)
空港(着陸シーン).jpg

 着陸。
 気温は約30度。日差しがとても強く、真上から照らされているような感じがしました。
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 レンタカーを借りて、道に迷いながらもホテルへ何とか到着。
 ホテルの部屋から撮影。
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 ビーチを散歩していると、セント・マーチン島から世界の主要都市までの距離と方角が示されたプレートを見つけました。東京まで8,419マイル、マイアミまで1,223マイル。「東京はこっちの方角かぁ、ニューヨークはこっちかぁ」と地球儀を思い浮かべながら、何回も色々な方を向いて自分がいる場所の位置関係を確認しました。方位磁石を持ってきていればなあ、とちょっと後悔。
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 マングローブかな。
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「僕はフィッシャーマン(漁師)なんだ」
というフランス人が、小船からロブスターの入ったオリを降ろしていました。sm07

 ホテル脇のビーチ付近ではなく、遠方で釣ってきた、とのこと。このロブスターを食べられるレストランを教えてもらいました。別途、紹介します。
「クリストファーに紹介された、といえば良いサービスをしてもらえるかもしれないよ」

 さて、この旅で借りたのは日産エクストレイル。ワイルドな山道が多いこの島で大活躍してくれました。
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 スーパーへ出かけます。
 フランス領だけあって、どのスーパーにもフランスパン・バケットがありました。アメリカではこういう光景はありませんので、これだけで「オシャレだなあ」と嬉しくなってしまいます。
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 巨大エビ。
 写真ではイメージしにくいですが、このエビ、体長は約30cmあります。カッ、と油で揚げて食べたいですね。
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 南国の魚。
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 BiOというフランスの食品ブランドかな。よく見かけました。試しに粉末スープを数種類購入しました。ナッシュビルで楽しみます。
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 カリブっぽいジュース。
 右側はグレープフルーツ炭酸ジュースです。他のブロガーの方が、美味しい、と紹介していたので買ってみましたが、確かに爽快感があり、美味しく楽しめました。
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 さすがフランス。クリーム・ブリュレが普通のスーパーで買えるのですね。嬉しくて思わず購入。
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 購入したのはいいのですが、付属していたカラメルはこの通り。「バーナーで完成させてね」という本格派クリーム・ブリュレでした。さすがにバーナーはないのでこのまま頂きましたが、とにかく美味しい。最高の気分になれました。
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 こんなふうに売られているということは、フランスでは一家に一台、クリーム・ブリュレ用のバーナーがあるのでしょうかね。

 次回は島の中心街を紹介することにします。
カリブ海に浮かぶセント・マーチン島
 明日からカリブ海に浮ぶセント・マーチン島に旅に出ます。

 この島はおおよそ10km四方に入るくらいの大きさで、フランス領(French Side)の北部とオランダ領(Dutch Side)の南部に分割されています。
 ここを旅先に選んだ理由は次の3点。

①カリブ海という響きがいい。
②小さな島でフランスとオランダの文化(食を含め)を味わえるのがいい。
③「カリブ海クルーズで寄港した幾つもの島の中で、最も良かった(雰囲気・綺麗さ・食事)」と友人が推薦してくれた。

 島について調べていたら、魅力的な写真をウィキペディア上に見つけました。
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 プリンセス・ユリアナ国際空港に隣接しているマホ・ビーチは飛行機が通過するコースの直下に位置し、また滑走路端にも位置しているため、飛行機の超低空飛行を間近で見られる場所として有名、とのこと。
 ここには見逃せませんね。

 さて、いい旅になるよう、ちょっと予習をしてみました。
<地理>
 海岸は入江が多く、山地が島の中央から南に延びており最高峰はフランス領側にあるパラダイス山 (424m)。
 島の面積は88Km²で、フレンチ・サイドは54km²、人口は約3万人、中心地はマリゴ。ダッチ・サイドは34km²、人口は約3万5千人で中心地はフィリップスブルフ。
島の地図.jpg

<歴史>
・1493年にコロンブスの第2回航海時に発見されるまでは、島には、先住民のカリブ族とアラワク族が住んでいた。セントマーチン島というのはコロンブスの命名。
・1631年にオランダが島を占領。ニューヨークとブラジル間における貿易の中継拠点とした。
・1633年にスペインによりオランダが追放される。
・1648年にオランダとフランス連合軍がスペインを追放。島はフレンチ・サイドとダッチ・サイドに分割される。
・その後、19世紀初めまでオランダ、フランスの両国にイギリスも加わり、島の争奪戦が繰り返された。
・1816年に現在の国境が定まる。
・当時はサトウキビの栽培が主産業で、アフリカから連れて来られた黒人奴隷に労働させる農場経営が行われていた。
・1848年にフランス領で、1863年にはオランダ領でも奴隷制度が廃止される。
・現在の住民は奴隷の子孫の黒人がほとんどで、観光客は大半がアメリカ人。

 ここで注目したいのは、1600年代のヨーロッパ各国の動きです。日本では徳川幕府の鎖国政策によって「世界を見る」どころではありませんでした。ヨーロッパ各国は発達した造船技術、軍事技術を駆使して世界を飛び回っています。
 ヨーロッパから大西洋・カリブ海は何となく近いような気がしますが、アジアにも航海して貿易で大いに利を得ていたわけです。
 オランダがセントマーチン島を占領した1631年というのは、彼等が台湾南部を占領(1624年~1662年)し始めた直後にあたります。オランダが国として最も栄えたのがこの時期で、司馬遼太郎著『街道をゆく~台湾紀行~(1997年第1版発行)』には次のように紹介されています。

「十七世紀のオランダ人ほど活動的だったのは、世界史でもめずらしいことなのではないか。
(中略)
 当時のオランダ人のしごとぶりは、同時代の競争相手の英国人をはるかに凌いで、組織づくりのうまいことと、ティームワークのよさが特徴だった。独立前後、多くの貿易会社が乱立していたのだが、必要とみると、たった一つにまとめてしまった。それが、一六〇二年、議会によって立法された「東インド会社」である。以後、会社が国か、国が会社か、絶妙に表裏をなして機能するようになる。
(中略)
 オランダ時代(台湾における)は、三十八年間でしかなかった。
 大陸では、明王朝が、異民族王朝の清のために亡びようとしていた。
 明王室を援けるべくたちあがったのは海賊の鄭成功である。かれは台湾に拠るべく大挙来襲してオランダ軍を降伏させた。一六六二年である。
 そのころオランダ国は、その繁栄に嫉妬する英国から執拗な海上攻撃をうけつづけており、おなじく一国のみの繁栄をよろこばないフランスからも一六七二年、陸上からの侵攻をうけた。これらの侵攻によって、万灯に風が吹きこんだようにオランダは衰退にむかう。
(中略)
 ともかくも、オランダは十七世紀の栄光の時代の最盛期に台湾にやってきて、衰退がはじまるころに台湾を去った。」

 このくだりについては、先般台南を旅した際に紹介しました。

 セント・マーチン島はカリブ海に浮ぶ海の綺麗なリゾート地ですが、少し歴史にも触れられればなあ、と思います。

<歴史的建造物>
・フランス領の中心地、マリゴの町から北の外れの海岸沿いにある高台には1786年に建てられたフォート・サン・ルイ(Fort St.Louis)と言う要塞の跡地がある。

 マリゴの街。
マリゴ(フレンチサイド).jpg

・オランダ領の中心地、フィリップスブルフには1631年オランダ海軍により建設されたアムステルダム要塞と、1801年イギリスにより建設され、1816年オランダが引き継いたウィレム要塞の2つの要塞の跡地がある。

 フィリップスブルフのビーチ。
フィリップスブルフ(ダッチサイド).jpg

 予習はこれくらいにしましょう。
 ワクワク興奮しています。
 寝れるかな。
司馬遼太郎著『項羽と劉邦』
司馬遼太郎著
『項羽と劉邦』
(新潮文庫)

項羽と劉邦1

項羽と劉邦2

項羽と劉邦3

項羽と劉邦4

「リーダーシップ」、何気なく普段使っている言葉ですね。これを日本語に訳すと何になるでしょうか。
「統率力」「指導力」「牽引力」など色々と出てくるかと思いますが、最もふさわしい日本語は「影響力」なのだそうです。

 何かの本に書いてありました。
「リーダーにとって大事なことは、部下を自分の思いとおりに動かそうとすることではなく、部下が自ら進んで仕事を行うようにすることである」
 これをあえて項羽と劉邦にあてはめると、項羽は前者のタイプ、劉邦は後者のタイプということになるのでしょう。

 劉邦の人間性については、本書「解説―史上最高の典型による人望の探求」の中で次のように述べられています。

「劉邦の場合、小さな我を、うまれる以前にどこかへ忘れてきたようなところがあった」し、さらには「劉邦はただ、<おのれの能(よ)くせざるところは、人にまかせる>という一事だけで、回転してきた」のを独特の強みとしている。もとより言うまでもなく「劉邦は、土俗人ならたれでも持っている利害得失の勘定能力をそなえていたが、しかしそのことは奥に秘めて露わにせず、その実体はつねに空気を大きな袋でつつんだように虚であった」。
(中略)
「いわば(劉邦は)大きな袋のようであった。置きっぱなしの袋は形も定まらず、また袋自身の思考などは無く、ただ容量があるだけだったが、棟梁になる場合、賢者よりはるかにまさっているのではあるまいか。賢者は自分のすぐれた思考力がそのまま限界になるが、袋ならばその賢者を中にほうりこんで用いることができる」のである。
 したがって「かれにはつねに献策者が必要だった。たれかが知恵をしぼって何かを言うと劉邦はそれを採用する。献策者が複数の場合には、良案をえらんで採った。そういう選択の能力は、劉邦にあった。さらにそれ以上の劉邦の能力は、ひとがつい劉邦のために知恵を絞りたくなるような人格的ふんいきを持っているということでもあったろう」か。

 今回、中国に関する歴史小説を初めて読みましたが、想像以上にその世界に惹きこまれていきました。読んでみるものですね。
 いつの日か三国志までいけたらな、と思います。