2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
ホー・チ・ミンを訪れました
ベトナムのホー・チ・ミンを訪れました。

ベトナム航空でホーチミン空港に到着したのが日曜日の昼過ぎ。ホテルでチェックインを済ませ、近くのレストランでフォー(米を原料とするベトナムの麺料理)を食べ、街の散策に出かけました。
1150985

ホーチミンの高級ブティック街の一角。付近にはルイビトンやバーバリーといった高級店が軒を連ねています。
1150979

ホー・チ・ミン像
1150980

歴史博物館(Bao Tang Linh Su)ではベトナム戦争についての展示コーナーを中心に見学しました。
1150987

「腐敗した政権に反対したのは、市民や学生だけでなかった。ベトナムの国民の多くが仏教徒で、仏教寺院が大きな力を持っていたが、カトリック教徒だったゴ・ジン・ジェムは、仏教寺院を厳しく弾圧。仏教寺院を弾圧することは、国民の大多数を敵に回すことでもあった。仏教徒は殺生が禁じられているため、武器を持って抵抗することは出来ず、中には焼身自殺をして、抵抗の意思を見せる僧侶も現れた。この映像は世界に流れ、衝撃を与えた。」
1150989

「1975年、北ベトナム政府軍の全面攻撃により、南ベトナム政府郡は総崩れに。サイゴンにわずかに残っていたアメリカ大使館関係者と政府関係者は、アメリカ軍が急遽派遣したヘリコプターでサイゴンを逃げ出した。アメリカ大使公邸の屋上に降り立ったヘリコプターに、ヘリで脱出しようとする人たちの長い列ができ、その様子が世界の人々に報道された。サイゴン市内に北ベトナム政府軍が突入すると、南ベトナム政府軍の兵士たちは、軍服を脱ぎ捨て、軍靴を放り出したまま、群衆の中に逃げ込んだ。散乱する軍靴の様子は有名な写真として記録されている。解放戦線の旗を掲げた北ベトナム政府軍の戦車がサイゴンの大統領官邸に突入、南の政府高官が降伏し、南ベトナムという国は消滅した。」
1150988

次に訪れたのは戦争博物館(Bao Tang Chung Tinh Chien Tranh)です。
1150995

1150996

1150999

同博物館ではベトナム戦争について、さらに詳細な資料が展示されていましたが、深い戦争の傷跡を示す虐殺の様子や多くの異常出産児等、数々の写真を観て、色々と考えさせられました。

「解放戦線との戦いで、アメリカ軍は熱帯のジャングルに大苦戦を強いられた。上空からは解放戦線のゲリラを見つけられず、爆弾を投下しても、密集したジャングルは破壊力を小さなものとした。これに対してアメリカ軍がとった作戦が、「枯葉剤」の空中散布だった。除草剤、枯葉剤を大量にまくことにより、ジャングルの木々を枯らしてしまおうという環境破壊作戦だった。この除草剤には、不純物としてダイオキシンが混ざっていて、それが人間にとって極めて有害(高い発ガン性や、異常出産をもたらす危険性)なものであることが、その後わかってきた。ベトナム戦争が終わってからも、二人の体がつながって生まれたべトちゃん、ドクちゃんのような赤ちゃんの出産が相次いだ。戦争は、環境や子孫への犯罪となった」

今回、ホー・チ・ミンを訪れる前に、ベトナム戦争について簡単に調べておいたので、街を散策する中で、同国の歴史のある部分について、より理解が深まったのではないかと思います。

次回訪れる際は、フランス統治時代のベトナムについて学んでみようかな。
ベトナム戦争について
初めてのベトナム訪問に先立って、ベトナム戦争について池上彰さんの著書で簡単に調べましたので、備忘記録としてここに残しておこうと思います。

池上彰著
『そうだったのか!現代史』
(集英社)

* ベトナムは隣り合ったカンボジア、ラオスとともに、長くフランスの植民地になっていた。
* 1940年、フランスがドイツに敗北。ドイツと軍事同盟を結んでいた日本は軍隊をベトナムに進駐させ、日本軍が実質的にベトナムを支配した。
* 当時の日本は日中戦争中だった。アメリカは中国を支援して、ベトナム経由で中国に物資を送っていた。日本軍はベトナムに進駐することで、これを阻止しようとした。
* 1941年、ベトナム国内に、ホー・チ・ミン指導の下、ベトナムの独立を求めるベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成された。
* 1945年、太平洋戦争が終わり、日本軍が引き上げると、ベトミンは「ベトナム民主共和国」の独立を宣言した。
* 日本軍が引き上げた後、再びフランスがベトナムを支配しようとした。
* 1946年、ベトミンとフランス軍の衝突が始まる。インドシナ戦争。同戦争は、この後、7年続いた。
* ベトミンはインドシナ共産党が指導し、ソ連と中国が支援した。対するフランス軍をアメリカが応援した。この時期はヨーロッパでちょうど東西の冷戦が始まったころで、ベトナムでは冷戦の代理戦争が行われた。
* 中国大陸が共産党の支配下に入り、朝鮮戦争でも中国が介入したのを見て、当時のアイゼンハワー大統領は、アジアの共産主義化を恐れ、1954年、「ドミノ倒し」という言葉を使った。「もしインドシナ半島が倒れれば、その他の東南アジア諸国もまるでドミノが倒れるように共産化するであろう。そして、その損失が自由主義社会に与えるダメージは、はかり知れないものになる」
* 1954年、フランス軍は降伏した。同年に行われたジュネーブ協定で休戦となり、ベトナムは北緯17度線を境に南北に分かれた。
* 北には既に独立を宣言していた「ベトナム民主共和国」が確立し、ホー・チ・ミン首相のもと、社会主義の道を進んだ。
* 1955年、「南にベトナム共和国」が成立し、総選挙の結果、アメリカが支援するゴ・ジム・ジェム大統領の政権が成立した。アメリカは、東西冷戦が激化する中で、アジアに親米的な政権ができ、アメリカの影響力が維持されることを望んだ。
* 「当時の共産主義はいぜん前進を続けているかに見えました。毛沢東と部下たちは1949年以降、中国を支配下に置き、北朝鮮と肩を組んで西側と戦っていました。フルシチョフは第三世界での“民族解放戦争”によって共産主義が勝利すると予測し、西側陣営に『われわれはあなた方を葬り去るだろう』と当時告げています。ソ連が1957年にスプートニク(ロシア語で人工衛星のこと)を打ち上げ、宇宙工学でのリードを見せつけたことで、フルシチョフの脅迫に信頼性が増しました。翌1958年、彼は西ベルリンに強圧を加えてきました。そしてまもなく、西半球ではカストロがキューバを共産主義の橋頭堡に変えました。われわれは包囲され、脅威にさらされたように感じたのです。アメリカのベトナム介入の底流にはこのような恐怖感があったのでした」(『マクナラマ~当時の国務長官~回顧録』より)
* しかし、アメリカが支援した南ベトナム政府は、民主主義政府とは言えないものだった。大統領になったゴ・ジン・ジェムは、独裁者として、自分に反対するものは容赦なく逮捕。またゴ一族はアメリカから流れ込む膨大な援助を一手に握り、横取り、国民に援助が回らなかった。「自由世界を守るために南ベトナムを援助する」というアメリカの論理は、現地では「国民を抑圧する政権を援助することは、結局は、その国の国民を抑圧することになる」という反発を呼んだ。
* 腐敗した政権に反対したのは、市民や学生だけでなかった。ベトナムの国民の多くが仏教徒で、仏教寺院が大きな力を持っていたが、カトリック教徒だったゴ・ジン・ジェムは、仏教寺院を厳しく弾圧。仏教寺院を弾圧することは、国民の大多数を敵に回すことでもあった。仏教徒は殺生が禁じられているため、武器を持って抵抗することは出来ず、中には焼身自殺をして、抵抗の意思を見せる僧侶も現れた。この映像は世界に流れ、衝撃を与えた。
* 1960年、腐敗した政権に対する民主化運動が次々に弾圧される中で、ゴ・ジン・ジェムに対する反対勢力である「南ベトナム民族解放戦線」(解放戦線)が結成された。解放戦線は「ベトナムからの外国の軍隊(アメリカのこと)の撤退」と、「独立・平和・中立の南ベトナム政府の樹立」を求めていた。このころ、北ベトナムの影響力はまだ大きくなく、南ベトナムに住む学生、労働者、知識人、民族主義者、共産主義者の混合体だった。そして農民たちも解放戦線の支持にまわった。
* これに対してアメリカは、南ベトナム政府の悪政への反発から南の住民が立ち上がっているという事実を認識することが出来なかった。解放戦線は、ソ連、中国という共産主義の本国から送り込まれた手先であるという認識しか持てなかった。東西冷戦が激化する中で、すべてを対共産主義の「冷戦」の観点でしか見れなくなっていた。
* 1962年、ケネディ大統領は、南ベトナムの軍隊を訓練、支援する目的で、1万6千人もの軍事顧問団を南ベトナムに送り込んだ。しかし、解放戦線を駆遂できないどころか、次々に撤退。
* 1963年、テキサスでケネディ大統領が暗殺される。ベトナムへのアメリカ軍派遣を決めたのは、ケネディーの前任者のアイゼンハワーだったが、軍隊を増強したのはケネディの時代だった。しかし、ケネディは、ベトナムで直接戦闘に加わる部隊の派遣には拒否し続けた。当時、テレビのインタビューに答えて「南ベトナム政府が国民の支持を得るためにもっと努力しない限り、あそこで戦争に勝てるとは思わないね。つまるところ、これは彼らの戦争なんだよ。勝つも負けるも彼ら次第だ。われわれは彼らを助け、装備を提供し、軍事顧問としてアメリカ人たちを送り込むことはできるが、彼らが戦争に勝たねばならない」」(『マクナラマ~当時の国務長官~回顧録』より)と語っている。このため、「もしもケネディが生きていたら、アメリカはベトナムから早期撤退して、ベトナム戦争の泥沼に引きずり込まれることはなかったのではないか」と言う人もいる。マクナラマもその一人。
* アメリカの大統領はケネディからジョンソンへ交代。
* 1964年、トンキン湾事件発生。アメリカが北ベトナムを攻撃する(北爆)契機となった事件。
* 北ベトナムは、北爆をきっかけに、南で戦う解放戦線への支援を強化することになった。それまで北からの影響が少なく、独立した戦いを続けてきた南ベトナム民族解放戦線は、これ以降、北ベトナムからの膨大な支援を受けて、戦力を強化した。さらに、北ベトナムの正規軍がひそかに南下して、解放戦線に合流。主導権は次第に北ベトナムに移っていった。
* 1965年、ジョンソン大統領は、20万人を越えるアメリカ兵をベトナムに送り込んだ。それまで南ベトナム軍を援助する立場だったアメリカ軍は、このときから、南ベトナム軍に代わって、最前線で北ベトナム軍・解放戦線と直接対決することになった。「ベトナム人の戦争」が「アメリカ人の戦争」に変質した。
* ジョンソン大統領は、南ベトナム国内で活動する解放戦線とは北ベトナムの軍隊だとみなしていた。「アメリカの掲げる民主主義は、誰もが望むもののはずだ。それに反対する者がいるとすれば、それは、ソ連や北ベトナムに操られている共産主義者に違いない」というのが、ジョンソン大統領や、その政権のメンバーの考えだった。
* 解放戦線との戦いで、アメリカ軍は熱帯のジャングルに大苦戦を強いられた。上空からは解放戦線のゲリラを見つけられず、爆弾を投下しても、密集したジャングルは破壊力を小さなものとした。これに対してアメリカ軍がとった作戦が、「枯葉剤」の空中散布だった。除草剤、枯葉剤を大量にまくことにより、ジャングルの木々を枯らしてしまおうという環境破壊作戦だった。この除草剤には、不純物としてダイオキシンが混ざっていて、それが人間にとって極めて有害(高い発ガン性や、異常出産をもたらす危険性)なものであることが、その後わかってきた。ベトナム戦争が終わってからも、二人の体がつながって生まれたべトちゃん、ドクちゃんのような赤ちゃんの出産が相次いだ。戦争は、環境や子孫への犯罪となった。
* 1968年、南ベトナム北部の古都フエと首都サイゴン(現在のホー・チ・ミン市)が北ベトナム軍・解放戦線に占領される。この様子が報道され、「アメリカ軍は、ベトナムでの戦争を順調に進めていて、勝利も得られる日も近い」と説明を受けていたアメリカ国民にとって大きな衝撃となった。アメリカ国民はアメリカ政府の言い分を信用しなくなった。
* 1968年、フエとサイゴンが占領された後、解放戦線を探してソミン地区に入ったアメリカ軍の一部隊が、老人や帰女子ばかりの無抵抗な農民160人を虐殺。この事件も報道され、アメリカ国内に大きな衝撃を与え、「わがアメリカ軍は、ベトナムにいったい何をしに行っているのか」という声が沸きあがり、ベトナム戦争への疑問が、アメリカ国内で大きく広がった。
* 1968年、ジョンソン大統領は北爆を一時停止し、北ベトナム・解放戦線との和平交渉を始めること、アメリカ軍がベトナムから順次撤退すること、次の大統領選挙に出馬しないこと、を決めた。ベトナム戦争をエスカレートさせたジョンソン大統領の敗北宣言だった。
* アメリカの大統領は民主党のジョンソンから共和党のニクソンに交代。
* 1969年、撤退開始。
* 1972年~1973年、完全撤退。アメリカ軍は南ベトナム軍にバトンタッチ。
* 1975年、北ベトナム政府軍の全面攻撃により、南ベトナム政府郡は総崩れに。サイゴンにわずかに残っていたアメリカ大使館関係者と政府関係者は、アメリカ軍が急遽派遣したヘリコプターでサイゴンを逃げ出した。アメリカ大使公邸の屋上に降り立ったヘリコプターに、ヘリで脱出しようとする人たちの長い列ができ、その様子が世界の人々に報道された。サイゴン市内に北ベトナム政府軍が突入すると、南ベトナム政府軍の兵士たちは、軍服を脱ぎ捨て、軍靴を放り出したまま、群衆の中に逃げ込んだ。散乱する軍靴の様子は有名な写真として記録されている。解放戦線の旗を掲げた北ベトナム政府軍の戦車がサイゴンの大統領官邸に突入、南の政府高官が降伏し、南ベトナムという国は消滅した。
* 1976年、南北ベトナムは統一され、ベトナム社会主義共和国が誕生。
* ベトナム戦争は、戦場の映像が、テレビを通じて直接家庭の茶の間に飛び込んだ戦争だった。報道の自由を重視するアメリカ軍は、攻撃作戦に報道陣の同行を許した。しかしその結果、アメリカ軍の残虐な行為も、アメリカ軍の若者の死体も、全部テレビに映し出されることになった。これがアメリカ国民にベトナム戦争への懐疑心をかきたて、「私たちは間違った戦争を戦っているのではないか」という思いを募らせた。ベトナム戦争は、テレビが勝敗を決めた戦いでもあった。これ以降、アメリカ軍は、戦場の実態がメディアに報道されないように細心の注意を払うようになる。後に起きた湾岸戦争では、報道規制が完成した。
太魯閣渓谷 in 台湾
先月の話。

週末を利用して、台湾の北東部に位置する太魯閣渓谷を訪れました。
何年も思い続けて、やっとその機会に恵まれたのです。

「太魯閣渓谷(タロコ渓谷)は、立霧渓が大理石の岩盤を侵食して形成された大渓谷。奇岩怪石と水の美しさゆえ、台湾の中でも特に人気のある観光地である。
「タロコ」の地名は流域の台湾原住民タロコ族の言葉で「連なる山の峰」を指すとも、高名な頭目の名に由来するともいう(ウィキペディアより引用)」

1150941

1150952

1150957

1150958

1150969

1150970

1150972

台湾の風景は日本のそれに近く、ぼんやり眺めていると何だか“ホッ”とするんですね。
Panera Bread(パン屋&サンドウィッチ屋)
Panera Breadは、チェーン展開している、ちょっとお洒落なサンドウィッチ屋です。
1130249

高速道路をロングドライブ中、タイミングよく昼食時にPanera Breadの看板を見かけると、フラフラっと誘われる感じで入っていきます。清潔感のある雰囲気の中、他のお店より美味しいサンドウィッチを食べることが出来るのが嬉しい。

オーダーしたのは、七面鳥のホットサンドウィッチ(ハーフサイズ)とフレンチオニオンスープのセット。
1130247

サンドウィッチを注文しているのに、サイドにはバケットを選びます。ここのバケットはとても美味しいんです。

余談ですが、この日の夕食は、宿泊したホテル(オハイオ州)近くのスーパーで購入したこちらでした。

1130254

カップ麺二つにマカロニサラダっていうのも炭水化物ばかりでバランスが悪いのですが、、、

日本であれば、ラーメン屋、牛丼屋、カレー屋、回転寿司、その他何でもありますので、一人きりの夕食選びに苦労しませんが、アメリカではなかなか難しいんですね。