2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
The Hermitage ~Home of President Andrew Jackson~
20ドル札の人物、第7代アメリカ大統領のアンドリュー・ジャクソンが“ザ・ハミテージ(隠れ家)”と命名した邸宅がナッシュビル空港の東側にあります。建物ができた1820年前後には、44名の黒人奴隷を使い4㎞2の綿花プランテーション(農場)を営んでいたとのこと。

The Hermitage
Home of President Andrew Jackson
4580 Rachel’s Lane
Nashville , TN 37076
http://www.thehermitage.com/visit/

20ドル札に描かれたアンドリュー・ジャクソン
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アンドリュー・ジャクソンは1767年にノースカロライナ州シャーロット付近の丸木小屋で生まれ、13歳で独立戦争に従軍して捕虜になり、家族も全員失います。
その後20歳でテネシーに移住、1796年にテネシー州発足とともに上院議員になり、さらに州兵を率いて戦った第二次米英戦争の功績で大統領に選ばれました。
テネシーの人たちは郷土出身の大統領だと考えていて、当時の邸宅“ザ・ハミテージ”近くにある小学校は“アンドリュー・ジャクソン小学校”と名付けられています。
また、I-24とI-65をつなぐ幹線道路254号線は、アンドリュー・ジャクソンのニックネームから“オールド・ヒッコリー通り”と名付けられています。

アンドリュー・ジャクソンについてウィキペディアより下記に引用します。

アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson, 1767年3月15日 - 1845年6月8日)は、第7代アメリカ合衆国大統領。ジャクソンは貴族生まれでない最初の大統領。「オールド・ヒッコリー」の愛称で呼ばれた。「アメリカン・フロンティア」に暮らし、独立13州に関係しなかった最初の大統領。ジャクソンはアメリカ史の象徴となった。
米英戦争の活躍をきっかけに大統領になり、任期中の強権ぶりから「アンドリュー1世」とも揶揄された程であった。アメリカ独立戦争と南北戦争の間、その時代は「エイジ・オブ・ジャクソン」「ジャクソン・エラ」としばしば呼ばれた。
史上唯一、議会から不信任決議をされた大統領であり、またアメリカ大統領史上初の暗殺の標的になった(未遂)。

<生い立ち>
ジャクソンは1767年にカロライナのワクスハウエリアの未開拓森林地域で生まれ育った。13歳の時に彼は急使として大陸会議軍に加わった。彼の肉親はアメリカ独立戦争時に全て死亡し、彼自身は英軍の捕虜となった。戦後ジャクソンは1800年に若き弁護士としてテネシー州に移り住んだ。彼は名門の生まれではなかったため、自分の才覚で経歴を創り上げなければならなかった。すぐに彼は開拓時代の無秩序の中で頭角を現し、州市民軍の大佐となり軍歴を積み重ねることとなった。
1812年の米英戦争でジャクソンは勇敢に戦い功績を挙げた。彼は軍隊で名声を得、森林地帯の戦場で「古いヒッコリーのように頑丈」"tough as old hickory" と呼ばれ、前述の愛称を得た。一方でジャクソンは米英戦争中、イギリス側に味方するインディアン部族のクリーク族を攻撃して大量殺戮し、ついで彼らの持つ広大な土地を強制割譲させている。戦争に於いて1815年1月8日のニューオーリンズの戦いでの彼の指揮は全国的な名声に繋がった。彼はその戦功で大将に昇進した。
1817年には独断でスペイン領フロリダに侵攻、インディアン部族のセミノール族の村々を破壊し虐殺するという事件をおこした。この時はアメリカ政府が彼の行動を擁護し、スペインにフロリダの管理不行届きを指摘。結果フロリダを割譲させている。
戦後、ジャクソンは急速に政治的経歴を積む。彼は上下両院の議員に選出され、最高裁判所に勤務した。1818年に再び軍務に就き、フロリダのアメリカ領を防衛する対スペイン戦役に従軍した。その後彼は同地の知事に任命された。

<大統領職>
1828年アメリカ合衆国大統領選挙は、私生活の暴露など露骨なネガティブ・キャンペーンに終始した選挙となるが、戦争の英雄として支持を集めていたジャクソンが勝利した。ジャクソンは自分自身の政治家としてのアイデンティティを庶民(common man)の味方におき、イメージを形成させた。彼はホワイトハウスの前にチーズを置き民衆に分け与え、ホワイトハウスへの見学ツアーを企画、その大統領就任の祝賀パーティーでは「民衆」のあまりの行動に収拾がつかなくなる一幕もあった。
一方、インディアンや黒人などに対する人種差別主義者であり、「インディアン移住法」を制定しインディアンを遠隔地の保留地(Reservation)に強制隔離した(→チェロキー族の「涙の道」)。また、ジャクソン自身、テネシー州のプランテーションで100人以上の黒人奴隷を所有しこれを酷使していた。
ジャクソンの時代までに白人男子普通選挙制が確立したこともあり、彼の時代は「ジャクソニアン・デモクラシー」とも称される。また、官吏の多くを入れ替えて自らの支持者を官吏とする猟官制(スポイルズ・システム)を導入した。当時においてはこの政策が汚職構造の打破と考えられ、これは慣例化した。
大きな政府を望まないジャクソンは、かつて政府が設けた第二合衆国銀行を、州ごとの独自財政を奪うとともに庶民の利益に沿わないとして、これを敵視し、自らの政治生命をかけて廃止に動く(彼の有名なセリフ “the bank is trying to kill me, but I will kill it”)。ジャクソンは連邦議会認めた第二合衆国銀行の特許更新に対して拒否権を発動。それまで拒否権は、あきらかに違憲の可能性がある時に発動するのが慣例であり、ジャクソンの行動は革新的なものだった。なぜなら最高裁判所でも、連邦議会でも第二合衆国銀行は合憲とされていたからである。議会は反発し、名だたる上院議員が演説をおこなった。しかし、結局拒否権を覆すのに必要な三分の二の票を反ジャクソン派は確保できず、第二連邦銀行は連邦の保証を失い、窮地に追いやられ、その後のジャクソンのさまざまな政策によって破産に追い込まれる。
このことでもわかるようにジャクソンは連邦に対して州の権利を重要視する、南部出身の「州権主義者」だった。彼の時代連邦政府は均衡財政を維持し、負債をださなかった。しかし、サウスカロライナにおいて連邦法を州の権限によって無効にし、州は合衆国から自由に離脱できるとする運動が起こったとき(無効化の危機)、ジャクソンはこの動きを強く牽制。結果サウスカロライナの離反はさけられ、この時の彼の行動は後のエイブラハム・リンカーンの南部諸州の連邦脱退の時の行動に強く影響を与えた。

<インディアンに対する姿勢>
ジャクソンは立身出世のきっかけとなった米英戦争においてインディアンの掃討で活躍していたように、彼の目指す民主主義は白人のためのみのものであった。ジャクソンは強制移住、保留地(Reservation)をはじめとする民族浄化政策を推し進めた。ジャクソンが定めたインディアン強制移住法は、インディアンから強制的に土地を収奪するもので、この法律によってインディアンの多くは大陸西部へと追いやられた。このインディアン強制移住法は違憲であるという判決を下した連邦最高裁判所長官ジョン・マーシャルに対し、ジャクソンは「マーシャルがこの判決を下したのだ。だからマーシャルにこの判決を実行させてみようではないか」と嘯き、平然と強制移住法を施行した。
ジャクソンは、インディアンは白人とは相いれない存在とし、1833年には議会での一般教書演説で、以下のような演説を行った。

インディアン問題に関する私の確信はもはや揺るぎない。インディアン部族がわれわれの定住地に囲まれ、我々の市民と接触し共存するなど不可能だ。
やつらには知性も勤勉さも道義的習慣さえない。やつらには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしないやつらは環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。
これまでのインディアンの運命がそうだったように、インディアンたちが消滅しなければならない事態が避けられない場合、彼らは我々白人の領土の外へ出ていくことが必要だ。その場合、我々が求める新しい関係に沿った政治体制を彼らが受け入れた場合のみ、これは可能となるのだ。
大学入学が秋になる?
22:50に帰宅。
帰国して初めてのワインを開けながらパソコンを立ち上げました。

なお、どうでもいい情報ですが、夕食はセブンイレブンで購入したグラタン、チキンライスとチーズパン。
あ、家内の名誉のために書きますが、生活準備がまだ整っていないので一人暮らし中です。

そして最初に目に入った記事がこちら。

「政府、秋入学を全面支援へ…府省に論点整理指示」
読売新聞 1月27日(金)20時49分配信

「藤村官房長官は27日、首相官邸で行われた各府省連絡会議で、東大など主要大学が検討している秋入学への本格移行について、論点整理を行うよう指示した。

 政府は今後、秋入学への移行に向け、大学当局をはじめ、学生や企業などを全面支援する方針だ。

 藤村氏は同会議で、「卒業生の雇用、卒業後の期間の取り扱いなど、環境整備が必要だ」と述べ、各府省の次官らに協力を求めた。

 秋入学構想の狙いは、教育・研究の国際競争力の確保だ。海外の大学で多い秋入学に合わせることで、日本の大学の国際化を目指す。野田首相は25日の国家戦略会議で、「グローバルな人材育成という観点から大変評価できる。官民を挙げた議論をしたい」と述べ、構想を支持する意向を示した。同会議に出席した経団連の米倉弘昌会長も「全面的に支持する」と語った。」

最近、よく話題になっていますね。
自分は、面白いからどんどんやってほしいな、と感じています。

でもこういう話になると、出来ない理由が多方面から出てくるのかな。
『人はとかく出来ない理由を探すのが好きである』という有名な格言があるかどうか知りませんが、変化することに抵抗を覚える人は世の中に少なくないのかもしれません。

「今までずっと○○でやってきた」
「○○が伝統なんだから、、、」
「前例がない」
「これがルール」

じゃあ、100年後も同じことするつもりなんですか、あるいは、やり方を変えて間違っていたと気付いたら方向転換する自信がないんですか、はたまた、何にそんなに怯えているんですか、という話ですね。
判断が早い人は、間違いに早く気付くことがとても重要なことだ、と感じている人なのではないか、と思うのは自分だけ?

「慎重に判断して・・・」
という言葉がよく使われますが、本来、これは
「論理的に考察されたセーフティーネットを何層にも張って(より良い結果を求める)」
ということなのだと思います。でもこの意味で使われることは案外少ないのかも。
問題の先延ばし?

大半のことは60%正しいと思ったら、そこでどんどんジャッジして進めていけばいいのでは。
う~ん、と念じていても何も始まりませんから。
止まって時間が過ぎれば過ぎるだけ、宝を得るチャンスが失われる、んじゃないかな。

新聞を読んだ後の独り言でした。

ウーロン茶飲んで、風呂に入って寝ようっと。
Ruth’s Chris ステーキ・レストラン
4年ぶりに高級ステーキ・レストランのRuth’s Chrisへ行きました。
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オーダーしたのはT-Bone Stake(T字型の骨の片側がフィレ、もう片側がニュヨーク・ストリップ)、約500g。
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塩と胡椒だけで美味しく頂きます。

500gのステーキを見ると昔は「とてつもなく大きい!」という印象を抱きましたが、今ではペロっとお腹に収まります。

Tボーン、プライムリブ、リブアイは日本でも食べることが出来るのかな?
アメリカのステーキ、日本のステーキ、それぞれの美味しさがありますね。
Bellla Napoli イタリアン・レストラン
クールスプリングに最近できたイタリアン・レストラン、Bella Napoliで友人とディナーを楽しみました。
日本人の主婦に人気のレストランとか。

ガーリックがほどよく効いたブリスケッタ
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ペンネパスタはしっかりとアルデンテ
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生地から作るピザ
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ウェイターのイタリア人オススメの美味しいイタリアワインとともに
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デザートにはティラミスを
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アメリカで食べるイタリアンはいまいちのことが多いのですが、このレストランの料理はどれも美味しかったです。

Bellla Napoli
1724 Carothers Pkwy, Brentwood, TN 37027
Calhoun’s バーベキュー・レストラン
ナッシュビルのダウンタウンからI-65を北へ10~15分走るとリバーゲートというショッピングモールがあります。
そのすぐ近くの「テネシーの味が売り」というバーベキュー・レストラン、Calhoun’sへ行ってきました。
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米人オススメのバーベキュー味のステーキをオーダー。
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バーベキュー味の骨付きリブは何回も食べてますが、この味のステーキを食べるのは始めてです。なかなかアメリカらしい味わいで美味しかった。

こちらが自慢のソース。Taste of Tennesseeと書かれています。
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テネシーで40年間過ごしてきた友人が
「俺はこれが大好物なんだ。最も好きな料理の一つ」
と強調するテネシー・コーン・プディング(写真中央上)をつけ合わせました。

口にすると、とてもクリーミーで確かに美味しい!
コーンスープをプリン状にして焼いた感じでした。

テネシー万歳!