2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
津本陽著 『商人龍馬』
津本陽
『商人龍馬』
(日本経済新聞社)

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備忘記録。

28ページ

龍馬は、外国と通商することがなぜいけないのかと考えていた。彼の本家である才谷家、親戚のヨーロッパと呼ばれる下田屋は土佐の物産を長崎へ運び売って、鉄材を買い入れてきて収益を得ている。隔たった土地を船を持ち往来して商えば、物価の相場が各地によって違うので、収益が大きくなることを彼は知っていた。
アメリカ人がどんな考え方をしているか知らないが、どっちも喧嘩をしないで商売をすればお互いに利益が得られると龍馬は思う。
そういう思考が、侍たちの攘夷の考えと違うところであった。

37ページ

龍馬は親戚の川島伊三郎から教えられていた。千石船を一隻こしらえるのに、帆から錨、鋼、伝馬まで入れておよそ千両かかる。船子は百石に一人と見ておけばいいので、十人ほどいれば船は動かせる。
時化にあって沈まない限り、3年の商いでもとが取れる。効率の悪い商売ではなかった。
海が好きな龍馬は、黒舟が浦賀沖に停泊している間に、江戸で魚から梅干に至るまでの食料品の値段がうなぎ登りになったのを見て、海上輸送の価値をあたらめて知ったのだった。

40ページ

河田小龍は龍馬に、万次郎から聞いたアメリカの商売について話した。
「アメリカじゃ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前んらぁがそのところを工夫して、株仲間を何とかこしらえて一隻の蒸気船を買うてみい。(中略)」
龍馬は父から問屋商人の実態を聞かされていた。
問屋商人は先物買いをして買いをあおり、先物売りをして買い控え、値を上げたり下げたりしてその差金を得ようとする。一攫千金の商法である。
(中略)
龍馬は、蒸気船を動かせば問屋商人のように手錬手管を使うことなく、運行経費を得ることができるだろうと考えていたが、小龍の言葉に刺激された。

44ページ

(龍馬が武市半兵太に言った言葉)
「俺は才谷屋や下田屋のように回漕をやりたがじゃ。そうするがは、時世が金で動いちゅうことが江戸に出てわかったためぜよ。アメリカじゃ四民平等というが銭がものをいう世の中じゃ。アメリカ、イギリス、ロシアが日本に開港させたいのは交易をするためじゃろうが。
そがな時世に働きゆう者は下等人民の秀才ぜよ。上士に西洋の学問をする根気はありゃせん。難しい勉強をしてわが才を頼りにして下から這い上がっていくのは下士、百姓、町人じゃ。乱世にはそうなるものじゃと『史記』に書いちゅう。俺は這い上がっていきたいがじゃ」

53ページ

坂本家の裏にある水道町2丁目の饅頭屋の息子近藤長次郎は、寺子屋へ行く時分から大変な英才でるとされていた。
(中略)
長次郎は江戸で幕府講武所師範役・勝麟太郎(海舟)、高島秋帆のもとで、砲術を学んでいた。長次郎は龍馬のもとへ手紙で新たな情報を頻繁に送ってくる。
「今、京都の西陣じゃ機屋が軒並みに潰れかけちゅうそうじゃ。生糸の値が上がったわりに織物の値が上がらんき、儲からん。生糸はこの一年ほどの間に倍にも上がってまだまだ上がる様子じゃ。
異人らあは幕府に横浜へ開港場をこしらえさせて、借り賃も払わん。買い込む品は商館の蔵へ全部納めさせ、値を決めるがじゃ。日本の商人どもはいくら買い叩かれても、なんせこれまでの倍の値でいくらでも売れるので、品物をかき集めて売りゆうぜよ」
日本の金銀の比価が1対4.5であるのを外国人たちが知ると、一文銀と小判を交換するようになった。海外の金銀の比率は1対15である。金の値が銀に比べて非常に高い。それで、メキシコドルと交換した一文銀を日本の両替屋に持ち込み引き換え、2倍から3倍の利益を得た。
龍馬は言う。
「幕府はアメリカやイギリスに振り回されちゅう。老中らは何の能もないがじゃ。大名は幕府に気兼ねばっかりしちゅう。才気ある下等人民が頭をあげにゃあ、世間は変わらん。俺はなんとしても江戸へ出たいぜよ」

164ページ

(薩長同盟の打ち合わせに来るはずだった西郷隆盛が約束を破り、これに腹を立てた桂小五郎に対して、龍馬が長州の利益になる提案をする)
桂は聞く。
「君方はいかなることをして面目を立ててくれるか」
龍馬が即座に答えた。
「長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、銃砲を買い入れ、尊藩へ持ち込むというのはいかがですろう」
桂は思わず龍馬の顔を見直す。土佐の浪人に過ぎない龍馬は、幕軍を迎え撃つ長州藩にとって涎のたれるような好餌を本当にもたらしてくれるのか。桂はまなざしを鋭くして尋ねた。
「まさか座興で申されるのではないじゃろうのう」
龍馬は酒に酔い、普段よりも細くなった近眼を向け、ゆっくりと答えた。
「座興なんぞと違いますき。信用してつかさい。俺の同士らあは、長崎に社中というもんを作っちょります。同志は神戸海軍塾にいたもんばあで、薩摩が後ろ盾となり手当てももろうちょります。
グラバーと小曾根英四郎という長崎の大商人が手引きして、何でも買いよります。社中が薩摩の名義で買うたもんを、薩摩の船で尊藩まで運びます。幕府にとがめられげるか、どうとでもできますらあ」
このとき、桂は、龍馬という無名の人物が中岡のような激派の尊王浪士ではなく、得体の知れない懐の深い男だと思い当たった。

198ページ

龍馬は(お龍に)言った。
「ワイルウェフ号をうまいこと使うて、貿易でひと儲けしようと思いよるがえ。社中の者がみな金持ちになれる日は近いろう。陸戦で長州が勝てば薩摩もじっとしておれん。物の値はうなぎ登りじゃ。こげなときに儲けんかったら阿保よ。こじゃんと儲けたら蒸気船を買うてなお儲けるぜよ」
「戦争がすんでも儲けられるんどすか」
「おう。下関あたりの商人の夢は、足の速い船で蝦夷の干しニシンやら昆布やら干しあわびやらを買うことじゃ。これが金儲けの近道ながよ。わが命を的に働いて、大名の家来になったら何ちゃあならん」
「ほんなら侍にはならんのどすか」
「アメリカじゃち、イギリスじゃち、商人は侍と対等やと。異人の中には身分の分け隔てというもんがないんぜよ。賢いもんが何ぼじゃち出世できる仕組みができちゅう。士農工商なんぞ時代遅れのことを言う世ではなくなるんぜよ」

あとがきにかえて――龍馬の本質

坂本龍馬は、外国勢力の渡来によって開国を迫られたため、封建制度を捨て、近代国家に急速に変化しなければならなくなった激動する幕末期に生きて、力の限り活動した男である。
彼は土佐郷士・坂本権平の弟であった。裕福な家に生まれた彼は、高知城下で撃剣道場を開けば、平穏な人生を送れる。だが彼は少年のとき、土佐・中の浜の漁夫でアメリカ漂流人の万次郎から外国の様子を聞き、海外に強い興味を抱いた。
彼の好奇心は、19歳で江戸へ武芸修行に出たことで、さらに強まった。世界有数の大都会である江戸に着いてまもなく、浮き城のようなアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻が、ペリー司令長官に率いられ、江戸湾に現れた。彼らの目的は日本に開国を強制することにある。
龍馬は政治の機運が大きく動き始めたのを知ると、それまで土佐の因習に縛られた小天地に手足をちぢめて生きていたのが、ばかばかしくなった。
本家の才谷屋、親戚の下田屋は廻船を持ち、隔たった土地の物産を売買している豪商である。彼の身内にも、好機に乗じて利をつかみ、広い天地をはばかりなく自由に往来したい願望がある。
高知にいると、いつまでも上士に見下される郷士の弟という身分にとどまるのみである。どんな才能があっても身分制によってがんじがらめにされて生き、自分の望む生き方の出来ない社会を離れたいと龍馬は思っていた。
時代の変化をうながす雲行きが矢は待ってきたのを感じ取ると、その願望が火に油をそそぐように高まってきた。
龍馬は約1年間の間江戸にいて、黒舟来航を二度経験して帰国するが、2年後の安政3年(1856)に再度江戸へ剣術修行に出て、安政5年(1858)の秋、帰国した。
彼は江戸で剣の腕をみがき、高知城下で道場を開こうとは、まったく思っていない。風雲急になれば、その雲の裂け目に吸い寄せられるように近づいてゆき、情勢の変化を確かめたいばかりである。
彼は武市半平太の主催する、下士出身の志士たちが結成した土佐勤王党に加盟するが、それは半平太がおびただしい下士団を率い、上士に対抗する勢力になってゆくと思ったためであった。だが半平太はあくまでも保守的思想家であり、上士に利用されたのちに抹殺されかねない人物だと知った龍馬は、脱藩した。文久2年(1862)3月、数えで28歳のときである。
龍馬は慶応3年(1867)11月15日、京都で暗殺されたので、彼が薩長連合、大政奉還などの維新回天の大業に参画し、獅子奮迅のはたらきをしたのは、5年余の間である。
龍馬は剣客であったが、闘争、殺傷を嫌った。薩長の倒幕の方針に同意せず、無血革命を推進しようとしたのもそのためである。流血は無益であるとして、あくまでも平和のうちの解決を望んだ。
彼は恩師勝海舟から、日本が西欧諸国のい圧迫に耐え、独立国として面目を保つためには、海運を盛んならしめ、貿易で国富をたくわえ、強力な海軍をつくらねばならないと教えられていた。
そうするためには、情報戦略によるしかない。龍馬は情報を集めるために、勝海舟の手引きによって、幕府、朝廷、薩長、越前の人材と交流し、下関、長崎の豪商、外国商人と緊密な関係をつなぐようになった。
これに土佐の後藤象二郎らの人脈が加わる。勝海舟の養成した神戸海軍塾出身の英才たちも、龍馬に協力した。英学に長じ、商法にくわしい陸奥源二郎、「船中八策」や大政奉還建白書を起案した長岡謙吉のほか、近藤長次郎、沢村惣之丞ら秀才。蒸気船運行の専門家、菅野覚兵衛、佐柳高次らがいた。
「海援隊約規」には、目標がはっきりと掲げられていた。
「海外へ進出する志のある者は、土佐藩、他藩の脱藩者を問わず、入隊させる。運輸、商業、開拓、投機のいずれにかかわらず、土佐藩の応援によっておこなう。入隊者はその志に従って選ぶものである」
龍馬は、上士、下士、百姓、町人などの身分はまったく問わず、志ある者を集める理想を実現しようとした。
龍馬は亀山社中、のちの海援隊を率いて波乱万丈のはらたきをしているにもかかわらず、常に資金難をかこち、ワイルウェフ号、いろは丸の沈没という不運に遭遇している。
彼は薩長連合の大立物という華麗な経歴を持つが、その功績にもかかわらず薩長からしだいに閉却されてゆき、ついに土佐藩の庇護下に身を置くまで、苦労をかさねる逆境に悩む歳月が長かった。
幕末動乱のさなかを、光芒を放ちつつ流星のように過ぎ去った龍馬の生涯は、悲愴の思いを抱かずには見ることができない。
龍馬の海運振興の遺志を継いだ岩崎弥太郎は、政府の大官とたくみに手を結び、アメリカ海運会社との競争にも勝ち、政商の頂点に位置するようになった。
龍馬が奇禍に遭うことなく、明治期を迎えておれば、岩崎を凌ぐ商才を発揮していたであろう。
龍馬の合理的で争闘を好まず、常に社会の変化を把握していようと心がけた性格は、武士のそれではなく、あきらかに商人のものであった。
WARRE'S OTIMA 20 years old
WARRE'S OTIMA 20 years old

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「ワレは英国で最も古い歴史を誇る1670年創立というポートを代表する古参生産者。
世界最高といわれるワインの一つであるポートワインの歴史を紐解くと、英国とポルトガルの交易が始まった日々にまでさかのぼる。中でも英国のポートワイン会社としては先駆者であり、最も古い歴史を誇っているのが、1670年創立のワレである。ワレ家はオポルトに2世紀近く住んでおり、息子はウェリントン卿率いる英ポルトガル連合軍に参加し、ポルトガル半島での戦いに加わっている。戦功を認められ、陸軍中将にまで出世している。1882年、アンドリュー・ジェームス・シミントンが母国スコットランドより到着した。
彼は数年のうちにワレの事業に参画し、ビジネスパートナーとなる。こうしてワレ家が持ち株をシミントン家に売却する1950年代まで、この2家族でワレを共同経営していた。今日8代目シミントンが、ブドウ畑の世話、ワイン醸造、熟成、瓶詰めまでの全工程を管理している。またポートの輸出業では4代目が携わっている。3世紀以上にわたり、ワレのポートの名声は確立されている。これほどの経験と伝統を兼ね備えた英国ポート会社は存在しない(楽天市場より引用)」

今までポートワインはあまり飲んだことがありませんでした。
20年もの。甘みがとても上品で美味しく頂きました。
Buca di Beppo キャンティ
ワイン名称:Buca di Beppo
ワイナリー:?
種類:サンジョヴェーゼ、他
年:?
地域:イタリア
価格:10ドル?
再購入:する

ナッシュビルにも店舗を構えるイタリアンレストラン、Buca di Beppoでサーブされているキャンティ。
フルーティーで飲みやすく、とても気に入っています。ワインショップで買えれば嬉しいんだけどなあ。

1120796
カレーはインドから伝えられたんじゃないの?
サントリー烏龍茶のラベルに書かれてあった「へぇ~」という話。

以下、同ラベルより引用。

「カレー」はもともとインドの食べ物。
でも日本では洋食屋さんにカレーがあるのは何故?
それは幕末から明治初期にかけて、カレーが文明開化の波とともにイギリスから伝えられたから。
今でも「欧風カレー」が人気なのはそのせいかも。
インド風にしても欧風にしても、カレーには後味サッパリ烏龍茶を合わせるのが現代日本風?
ふぅふぅしながらいただきましょう。
大前研一共著『大前研一と考える営業学』
大前研一共著
『大前研一と考える営業学』
(プレジデント社)

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備忘記録。

*数字は詰めず、行動を詰める

目標数値は必要。しかし数字を詰めても目標を実現することは出来ない。
三割バッターになれといっても、誰もがそうなれるわけではないが、素振りを毎日1000回しなさい、といえば、スキルや能力に関係なく、だれでもできる。
数字は自分の意思だけではどうにもならないが、行動は違う。
業績を改善するには、営業担当者の行動をまず変えなければならない。

*顧客が営業担当者に望むもの

「専門知識と問題解決力」が第一位。
「顧客企業が属する業界に関する知識」が第二位。
顧客が営業の知識に物足りなさを感じていることがうかがえる。

*営業の三段階

顧客にお似合いの吊るしのスーツを探すことが第一段階。
これに改良を施して、より着心地のよいニュー・モデルのスーツを開発すること、が第二段階。
その顧客だけのテーラーメードのスーツを仕立てることが第三段階。
質問力を磨いて、さまざまな顧客の課題やニーズを深く広く理解するとともに、そこに共通点を探す力が求められる。
上手なカスタマイズのためには、まず「特定の顧客だけでなく、多くの顧客に当てはまる具体的な改善案や改良案を提案」できるようにならなければならない。

*質問する技術~演繹思考と帰納思考~

演繹とは、原理や法則などの一般的に信じられていることを出発点に結論を導き出す推論法。いちばん単純なのが三段論法で、大前提→小前提→結論という流れで進める。
例えば、次のケース。
「〇〇業界は年率30%の伸びを見せている成長産業だ」(大前提)
「A社は〇〇業界に隣接する分野で事業を展開している」(小前提)
「A社は〇〇業界に参入するために必要なノウハウを持っており、〇〇業界に興味を抱いている」(小前提)
これらの前提から、次の仮説が立てられる。
「A社は〇〇業界への参入を検討しているのではないか」
そして、この仮説に基づいた質問をして、仮設が誤っているようなら、最初の仮説を立てるところに戻って修正する。
このようにして、質問を繰り返すことで仮説を検証した結果、次のような結論に至った。
「A社が望んでいるのは、〇〇業界に参入するのに適した提案だ」
実際の現場では、「演繹的に考える」「仮説を立てる」「質問する」「検証する」を繰り返して、顧客が抱えている課題やニーズをより具体的に把握していくことになる。

この過程で、帰納的な思考法が役立つこともある。
「帰納」とは一般的ではない個別具体的なことを出発点に、一般的な結論などを導き出す思考法。
例えば、B社の担当者は話好きで、思いついたことをどんどんしゃべるので、結局何をいいたいかわからないことで有名。ある営業担当者は、じっくり彼の話を聞いてから、
「要はこういうことをおっしゃっているのですね。それを実現するためには、こんな機能を備えた商品が必要だということですね」と返して、商談を前進させた。
このように相手が話している内容を簡潔に要約して結論を導き出すのが「帰納」の基本。

*値引きをしないで代替案を提示する

値引きをするとお得感を持ってもらえるのならば、値引き意外の方法でお得感を感じてもらうにはどうすればよいのか。実現度の高い方法が何とおり考えられるか。これが演繹的に考えるということ。

*顧客のニーズを聞き出す

顧客から、満たされないニーズを聞くだけでは、問題解決案を提案することはできない。
顧客の活動工程を分解し、どこに大きな問題があるのかを質問し、なぜそれが大きな問題点なのかも質問することで、何とおりかの対処方法を提案することができる。

*前提を疑う

あるクライアントの経営委員会に出席したときのことです。
A執行役員が
「優良顧客のほとんどが中国に進出しており、海外売上高の比率を高めるチャンスがる」と問題提起しました。するとB執行役員が
「たしかにそうかもしれないが、中国に進出した顧客に聞いたところ、商社や現地企業がほとんど手配してくれて、うちに頼めることは何もないそうだ」
と言い出しました。
そこで私は、
「ちょっと待ってください。それは本当に正しいのでしょうか」
と質問しました。
B執行役員のいう顧客は、「この会社はうちとの関係は長いけれど、いつも製品を届けてもらっているだけなので、相談したとろで無駄だろう」と考えているか、「海外については経験豊富な貿易会社に任せたほうが成功確立は高い」と決めてかかっている可能性があります。また、B執行役員自身もそう信じているわけです。
本来この顧客に対しては、
「現在の中国ビジネスを拡大するうえで、何が阻害要因になっているのですか。どうすれば現在の問題を解決できるのですか」
と質問しなければならなかったのです。
やる前からあきらめるという姿勢は論外ですし、顧客の業績に貢献できるチャンスは必ずどこかに潜んでいます。進化しつつある質問力を発揮してそれを見つけ出し、頼もしい問題解決者として顧客に認めてもらう絶好の機会がそこにあるのです。