2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
Alexander & Fitch カベルネ・ソーヴィニヨン
ワイナリー:Alexander & Fitch Winery
種類:Cabernet Sauvignon
年:2009
地域:アメリカ/カリフォルニア/ソノマ
価格:7ドル
再購入:する

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トレーダー・ジョーズで「顧客満足度一位」と大々的に宣伝していたので買ってみました。
確かにGoodです。価格と品質のバランスが人気の理由でしょう。
気軽に楽しめる一本。
熊本城
高校の修学旅行で訪れて以来、22年ぶりに熊本城へやってきました。と、言っても車の中からチラリと眺めただけ。
高校生のころは歴史に興味があるわけでもなく、仲間と騒いでいただけでした。
いつの日かゆっくりと散策したいな。

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熊本城公式ホームページ http://www.manyou-kumamoto.jp/castle/ より加藤清正と西南戦争についての記述を抜粋します。

<加藤清正>

永禄5年(1562年)6月24日尾張国(おわりのくに)生まれで、豊臣秀吉(とよとみひでよし)とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もあります。幼名を夜叉丸(やしゃまる)といい、9歳の頃から秀吉に仕え、元服してから加藤虎之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗りました。

初陣がいつかは明らかではありませんが、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てました。

天正16年(1588年)清正はそれまでの侍大将から、いっきに肥後北半国19万5000石の領主を任命されます。清正27歳のときでした。前年に佐々成政(さっさなりまさ)が肥後統治に失敗した後を受けたものでした。入国当時の肥後は国衆(こくしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難治の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていました。当時肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と書き残しているほどです。

入国後清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、また南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになりました。今でも熊本では善政の事跡は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるのです。

文禄・慶長の役では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では、石田三成(いしだみつなり)、小西行長(こにしゆきなが)らとの確執から東軍につき、小西滅亡後は肥後南半国も領して、実質ともに54万石の大大名となります。関ヶ原で東軍についたとはいえ、豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城(にじょうじょう)で秀吉の遺児秀頼(ひでより)と徳川家康(とくがわいえやす)を会見させることに成功しました。

これで豊臣家も安泰と思われたのですが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなりました。享年50歳。奇しくも生まれた日と同じ6月24日でした。豊臣家も清正の没後わずか4年で大坂夏の陣に破れてしまいます。

加藤家の菩提寺本妙寺(ほんみょうじ)では、毎年清正の命日(新暦7月23日~24日)に頓写会(とんしゃえ)と呼ばれる法要が行なわれ多くの参拝客で賑わいます。

<西南戦争 熊本城籠城戦>

明治10年(1877年)2月15日、50年ぶりの大雪の中、薩軍(さつぐん)が北上を始めます。かねてより「薩摩不穏」との情勢を掴んでいた熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき)は前日の14日に籠城を決意します。

前年10月の神風連の乱(しんぷうれんのらん)から未だ鎮台兵の士気が回復していないことや、県下の士族には薩摩と気脈を通ずる者が多く、また兵力が圧倒的に少なかったからです。

籠城が決まると食料・薪炭等を備蓄し、橋を撤去したり、通路を塞ぎ、地雷を埋め、更には「射界の清掃」のために市中に火を放ちました。開戦前に城下は焼土と化したのです。
市中放火とほぼ同時刻、天守閣付近から出火し、天守と本丸御殿一帯が焼失してしまいます。原因にはいくつかの説がありますが、いまだに特定はできていません。

城内には歩兵第13連隊を中心に、3500人が守りにつき、かたや薩軍は13000人が鹿児島を進発していました。

2月21日に城下に入った薩軍に対し、竹の丸、飯田丸(いいだまる)の砲台が砲撃を加えましたが、薩軍は応じず、小競り合いに終わりました。

翌22日午前7時薩軍は総攻撃を始め、城の四方から攻めたものの、攻めあぐね、城内に入ることはできません。23日、24日も同じように激戦が繰り広げられます。最も戦闘が激しかったのが城の西端にある段山方面で、13連隊長の与倉知実(よくらともざね)はここで重傷を負いやがて死亡。また、藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう)もこのとき焼失してしまいました。

3日間の激戦の末、薩軍は一兵も城内に入ることができず、3,000の攻囲軍を残し北の田原坂(たばるざか)へと兵を進めたのでした。

3月19日、陸軍中将黒田清隆(くろだきよたか)率いる衝背軍が八代方面に上陸、熊本城を目指し北上を始めます。翌20日には田原坂が陥落。薩軍も必死に抵抗しますが、ついに4月14日衝背軍が薩軍の囲みを解き熊本城に入城、52日間に及ぶ籠城戦は終了し、熊本城は不落の名城を名実ともに実証したのでした。

西郷は終焉の地城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白したとまことしやかに今も伝えられています。

熊本城周辺には西南戦争にまつわる史跡が多く残されています。明治の武人を偲んで熊本城域を散策するのもまた一興ですよ。
金環日食(2012年5月21日)
広島はゾーンから外れていましたが、東京ではこんなふうに見えたのですね。

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そういえば5月21日と言えば、、、
1575年のこの日(旧暦ですが)、長篠の戦いで、信長・家康の鉄砲隊が武田勝頼の騎馬軍団を破りました。
仕事量・時間と成果の関係
仕事量・時間と成果の関係

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横軸は仕事量や仕事時間といったインプットを表す。縦軸が成果への貢献度を表す。横軸の1の部分を上にたどっていくと、曲線グラフと「0.632」で交差する。
これは1インプットすると仕事の63%が出来る、ということを意味している。同じように2インプットすると86%、3インプットすると95%出来ることになる。

ここで分かるのは、1インプット~2インプットの間では、仕事をこなせる割合が23%増えている。ところが2インプット~3インプットの間では10%しか増えていない。この先はさらに微増しかしていない。

日本人は、このグラフでいうところの「5インプット」あたりで仕事をしている。つまり多くをインプットし過ぎて、仕事の効率がものすごく悪くなっている。
これがアメリカ人なら、3インプットでやめてしまう。2インプットでも86%の仕事ができているので、それ以上やっても効率は落ちる一方だと考える。

仕事量や仕事時間に優先度をつけて、なるべく少数の貢献度の高い仕事に集中することで仕事を効率化する。それが顧客満足や会社の利益に繋がっていく。

下記文献より引用。
 
村上憲朗
『村上流シンプル仕事術』
(ダイヤモンド社)
司馬遼太郎記念館を訪れました
ゴールデンウィークは家族で大阪に里帰り。
鶴橋のコリアンタウンで韓国料理を楽しんだり、八尾にウルトラマンショーを観に行ったり、夫婦水入らずで居酒屋に行ったり、あっという間の数日間を過ごしました。

そして久しぶりに訪れた司馬遼太郎記念館。5回目の訪問です。
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開館10周年記念企画展のテーマはこちら。
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毎度のことながら、このブックカバー欲しさに本を購入しました。
『街道をゆく21 神戸・横浜散歩、芸備の道』
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近いうちに「芸備の道」を散策したいと考えています。