2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
広島市安佐南区せせらぎ公園
子供は夏休みに突入。
広島市安佐南区の「せせらぎ公園」で川遊びを楽しみました。
1160827

1160831

1160852

1160855

1160839

1160843

1160847

出会ったお爺さんによると、この貝はホタルの餌になるそうです。三次(瀬戸内海と日本海の真ん中辺り?)の方へ行くと郷土料理として食されている、とのこと。
1160851

昼食後は水着に着替えて遊びました。
1160862

広島は都会と自然とのバランスが取れていて過ごしやすいところです。
冬は寒くて身動きが取れないので今のうちに楽しんでおかないとね。
広島城(広島県広島市)
『日本の名城100』の一つである広島城を訪れました。
1160821

広島城のホームページ http://www.rijo-castle.jp/ に関連する歴史が紹介されています。

毛利輝元 
城主在任期間:天正19年(1591)-慶長5年(1600)

永禄6年(1563) の父隆元の急死により、祖父元就の後見の下わずか11歳で毛利家の家督を継ぎました。同 8年に元服し、将軍足利義輝の一字をもらい 「輝元」 と称しています。元亀2年(1571) に元就が死去すると、叔父の吉川元春・小早川隆景の補佐を受け、領地を拡大し、中国地方一円に広がった領国の支配強化を進めました。

このころから毛利氏は、天下統一を目指して播磨国(現兵庫県)に進出してきた織田信長と衝突するようになります。
天正4年(1576) 、輝元は信長と敵対していた将軍足利義昭を保護、また信長に包囲されていた石山本願寺に救援を送るなどし、水軍と石見銀山の富を背景に信長と直接対決します。しかし信長配下の羽柴(豊臣)秀吉の攻勢を受け、山陰・山陽の前線で次第に後退を余儀なくされ、同10年(1582)、備中高松城を包囲していた秀吉と講和を結びました。この時、本能寺の変の報に接して兵を返す秀吉軍を小早川隆景の進言により追撃しなかったのですが、このことによって輝元は秀吉の信任を得ることになったとも言われています。その後は、秀吉に臣従して四国・九州制圧の先陣を務めています。
天正16年(1588)の上洛と前後して、領内の惣検地と広島築城を開始し、同19年(1591)には、秀吉から9か国112万石を安堵され、本拠地を郡山城から広島城に移しました。慶長 2年(1597)には、五大老のひとりとなり、豊臣政権下で重きをなし、翌年に秀吉が死去した際には秀頼の補佐を遺言されます。

しかし、同5年(1600) の関ヶ原の合戦の際に、反徳川家康陣営である西軍の総大将として大阪城に入ったものの実戦には参加せず、西軍は敗北します。結果、周防・長門の 2国に減封となり、剃髪して宗瑞と号し、子の秀就に家督を譲り、後見しました。
(広島城ホームページより引用)

1160807

毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ拠点を移した理由について、ウィキペディアで興味深い内容が説明されています。

それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた。

ただ毛利輝元時代の天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になる。中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた。

1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大阪城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている。一説には永禄年間(1558年-1569年)の輝元の祖父である元就のころから現在の広島の平野部(一説には比治山)への築城構想はあったという。

(中略)

完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれるが、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)城主となった福島正則による改築があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明である。
(ウィキペディアより引用)

天守閣からの眺め。
1160812

1160811

こちらには原爆ドームが見えます。
1160813

次回は司馬遼太郎著『街道をゆく~芸備の道~』を片手に、吉田郡山城を訪れたいと思います。
清宮普美代著『20代で身につけたい質問力』
清宮普美代著
『20代で身につけたい質問力』
(中経出版)

備忘記録。

*意見がぶつかったときのコミュニケーションのこつ

意見がぶつかった時には、会話の途切れたタイミングで「つまり、〇〇ということですね」と相手の要点をまとめるとよい。これにより、「あなたの話を聞いていますよ」というメッセージを送ることができれば、相手はクールダウンの時間が取れるし、「理解しようとしてくれているんだな。こちらも相手の話を聞こう」という感情が働く。

*時間軸を変えると新しい発想が生まれる

現在の目の前にある問題にとらわれて、よい解決策が出てこない場合、時間軸をずらすのも有効な方法である。
「いつから現在の問題は発生していたのか」
「過去においても同じことはあったか」
「この状態が続くと、将来はどうなるか」
「来年も現在と同じ状況か」

*嫌な質問を気持ちのいい質問に変換する

「どうしてできなかったのですか」
→「達成するためには何が必要ですか」

「どうしてやらないのですか」
→「どんなことから着手できますか」

「やる気の問題じゃないですか」
→「何が妨害していますか」

「誰が悪いのですか」
→「どんなサポートが必要ですか」

「~すればいいと思いませんか」
→どうすればいいと思いますか。

*4つの振り返り質問

「私は(プロジェクトなどを)うまくやっているか」
「どうしたらもっとうまくやれるのか」
「何を学んだか」
「何が今後活かせるか」
白金ノ露 黒(芋焼酎)
焼酎名称:白金ノ露 黒
メーカー:白金酒造株式会社
種類:芋
地域:鹿児島県

1080612 1080613

2~3年前にコンビニで見かけて、「すごそうな賞を受賞しているな」という理由で買ってみましたが、まったりとして美味しい芋焼酎でした。

白金酒造株式会社
http://www.shirakane.jp/
福山城(広島県福山市)
広島から新幹線で東へ向かう時、福山駅でホーム越しに見えるお城がいつも気になっていました。
先日、福山駅で山陽本線に乗り換える機会があり、そのホームからとりあえずパシャリ。
1160794

この福山城は『日本の名城100』の一つのようです。
調べてみたところ、今までに訪れた『日本の名城100』は次の通りでした。
残念ながら歴史に興味を持ち始めてから訪れたところはありません。

*江戸城    (東京都千代田区)
*小田原城  (神奈川県小田原市)
*小諸城    (長野県小諸市)
*大阪城    (大阪府大阪市)
*姫路城    (兵庫県姫路市)
*熊本城    (熊本県熊本市)

まずは広島にある『日本の名城100』を訪れたいなあ。
*福山城    (広島県福山市)
*吉田郡山城(広島県安芸高田市)
*広島城    (広島県広島市)

次回の予習として、福山城についてまとめておきます(ウィキペディアより引用)。

<概要>
福山城は元和8年(1622年)に完成した。新規の築城としては近世城郭で最も新しい城で、備後福山藩の藩庁かつ藩主の居城であった。形式は輪郭式の平山城で、かつては2重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河を持ち五重の天守と7基の三重櫓を有する大規模な城郭であった。

現存する建造物としては伏見櫓と筋鉄御門(共に国の重要文化財)があり、このうち伏見櫓は福山城の築城時に伏見城から移築されたもので現存の櫓では最古の建築である。天守は昭和20年(1945年)まで残されていたが福山大空襲により焼失している。現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興されたものである。

<歴史・沿革>

福山城は江戸時代初期、元和偃武の後に建造された近世城郭で最も新しい城である(厳密には赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後としてよいだろう)。

元和5年(1619年)、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことから、 徳川家康の従兄弟である水野勝成 が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。入封時の領地目録上は備後神辺城主であったが、神辺城はやや内陸にあり過去に何度も落城した歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。

築城開始から3年近くの歳月を要した元和8年(1622年)に福山城は完成する。福山城は10万石の城としては破格の巨城で特に5重の天守や三重櫓7基を始めとした20以上を数える櫓は特筆に値する。更に築城後には幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与されるなど、天下普請に準じる扱いを受けており、福山城が西国街道と瀬戸内海の要衝を護る城として幕府に期待されていたことが伺える。

勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続いたが、元禄11年(1698年)5代藩主水野勝岑の早世により無嗣除封となり、福山藩は一時的に天領とされる。福山城の受け取りは伊予国今治藩松平定陳と安芸国三次藩浅野長澄によって、城の管理は讃岐国丸亀藩京極高或によって行われた。このとき領内全域で検地が行われ、福山藩の石高(表高)は10万石から5万石増の15万石と査定される。元禄13年(1700年)、出羽国山形藩より松平忠雅が水野時代から5万石分の領地を削減された10万石で入封する。しかし、忠雅は10年後の宝永7年(1710年)に再び伊勢国桑名藩に移封させられ、同年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封する。その後、正福、正右、正倫、正精、正寧と続くがその殆どが江戸住まいで福山に帰城することも希であった。また、阿部氏の時代は危機的な財政難が続いたこともあり、享保15年(1730年)には本丸御殿の奥向部分が江戸藩邸に移され、寛延3年(1750年)には二の丸下段の城米蔵が取り壊されるなど、必要性の薄まった施設は撤去されていった。

慶応元年(1865年)、阿部家9代藩主阿部正方が第二次長州征伐参加のため石見国へ出兵することになり、その準備を行っていたところ、二の丸南側の櫛形櫓で火薬が爆発し隣接する鎗櫓、鉄砲櫓、番所が櫓内の武器と共に焼失した(これらの櫓が再建されることはなかった)。この火災は閉門後であったため死者は番人1名に留まったが城下は大混乱に陥ったといわれる。その後、長州軍との戦いは完敗し、兵を引き揚げた福山藩は幕末の動乱を傍観していたが、第二次長州征伐から3年後の慶応4年(1868年)1月9日に西国における幕府側の重要な拠点であった福山城が初めての攻撃を受けることになった。

王政復古により新政府軍(長州軍)は徳川譜代である福山藩を朝敵と見なし備後国へ侵攻した。福山藩はこの直前に藩主阿部正方が急死し藩内の実権を勤皇派が握っていたことなどから、藩主の死を秘匿し当初から迎撃を諦めて福山城に篭った。城下の手前まで進入した新政府軍はまず城の北西(現在の市内北本庄町)にある円照寺に陣取り福山城の北側から大砲による攻撃を開始する(焼失前の天守にはこのときの弾痕が残されていた)。その後、新政府軍は城内へと進攻し小丸山や松山から城に銃撃を浴びせるが、福山藩の反撃により新政府軍の藩兵3名が戦死した。しかし、福山藩首脳らの奔走により新政府軍が本格的な攻撃を開始する前に福山藩は恭順を許されることになった。これにより城下は戦火から守られたが、後に福山藩兵は新政府軍の先兵として不遇の扱いを受けることになった。正方は世継がないまま死去していたが、福山藩は幕末の混乱に乗じて安芸広島藩藩主浅野長勲の実弟阿部正桓を養子に迎えることでお家断絶を回避し版籍奉還を迎えた。

明治維新後の廃藩置県により福山藩は福山県となり、それから数年の間に県名や県域の変更を繰り返した。福山城は明治6年(1873年)の廃城令により廃城とされ、ほとんどの施設は民間に払い下げられた。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月8日、米軍の空襲(福山大空襲)により天守、御湯殿、涼櫓などが城下に残る多くの文化財と共に焼失した。