2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
Jordan カベルネ・ソーヴィニヨン
ワイナリー:Jordan Vineyard & Winery
種類:Cabernet Sauvignon
年:2005
地域:アメリカ/カリフォルニア/アレキサンダー・バレー
価格:55ドル
再購入:する

1120792

上品という言葉がぴったりなカベネ。
自分の中で好きなカベネをランク付けしていますが、その最上位にくるうちの一本です。
他、最上位は次の3本。

シルバーオーク
オーパスワン
ケンウッド・アーティストシリーズ

ある一定以上のレベルのカベネになると、どっしりと太く力強さを感じさせるタイプと、洗練された上品さを感じさせるタイプに分かれます。これは好みの問題なんですが、自分は後者を楽しんでいる時に、より幸せを感じます。

楽天市場よりジョーダンのカベネについて下記解説(2007年当時に掲載)を引用します。

「元々地質学者として、そしてワイン鑑定家として、さらに石油開発でも成功を収めていたトム・ジョーダン氏が北米に渡ってきたのは1970年のこと。アレキサンダー・ヴァレーを視察したトム・ジョーダン氏は即座にこの地が将来カリフォルニア・プレミアムの中心地になるとそのポテンシャルを見抜き、1972年にいきなり275エーカーもの広大な畑を購入(当時はプルーン畑でした)、加えて1300エーカーの土地を、将来のワイナリー施設と先住していた動物保護のために買い増しました。おそるべき千里眼です。伝統的なフランス様式のワイナリーが完成し、設立となったのが1976年。トム・ジョーダン氏の予想がどうなったか。現状のアレキサンダー・ヴァレーと、ジョーダン・ワイナリーを見れば、答えは明らかです。

ヒルサイド・ヴィンヤードからのカベルネに、同ヒルサイドのメルロー(18%)、フラン(2%)、プティ・ヴェルド(4%)をブレンド。フレンチオーク62%、アメリンオーク38%、それぞれ小さな樽を用い、12ヶ月間熟成させたあと、大樽に移し変えて33ヶ月熟成。その後ボトル詰めされ、瓶内でさらに18ヶ月もの熟成を経て、約3年の熟成の後、ようやくのリリースを迎えます。

既に18年続く、W&S誌(ワイン&スペクテータ)から年に1度発表される全米飲食業界におけるワイン売れ筋ランキング、「レストラン・ポール・アワード」。各地の2,000ヶ所以上の飲食店に質問状を送り(今年は2,333)、その回答からベストセラーとなった人気のワイン・造り手を調査し、ランキング形式で発表する年に一度の祭典です。最も詳しく調査された "レストラン・ワイン白書" とも言えましょう。
ジョーダンは2000年以降だけを見てもこのレストラン・ポールの12th~17thと6年連続でブランド総合TOP5入り。さらにカベルネ部門においては12th~15thまで4年連続第1位、16・17thが第2と、6年連続で優勝か準優勝のどちらからに輝いているのです。つまり全米レストランで最も愛され、振舞われているブランドの1つが『ジョーダン』なのです。
最新版となる2007年度版「第18回全米レストラン・ポール」においても、ジョーダンは総合部門制覇。全米レストランにおけるブランド別総合部門NO.1の栄誉を手にしました。これでTOP5入り記録を7年連続へと更新し、カベルネ部門においても7年連続にて1・2位いずれかに選出されるという、飲食業界における圧倒的地位を再確認させる出来事となりました」
喜一郎/萩の酒
喜一郎
8120108

萩の酒です。
伊藤博文の家と高杉晋作の家の中間地点辺りで楽しんだ一本。

サザエの刺身と
8120109

帰宅してネットで検索しても『喜一郎』ではヒットせず、詳細がわかりませんが、おそらく下記酒造のお酒でしょう。

社名  :岩崎酒造株式会社
代表者 :岩崎 喜一郎
所在地 :山口県萩市東田町58
代表銘柄:長陽福娘

土産屋で長陽福娘を購入して広島に持ち帰りました。
いつ飲もうかな。
澄川/萩の酒
田万川吟醸 澄川(すみかわ)
8120105

萩の酒です。
伊藤博文の家と高杉晋作の家の中間地点辺りで楽しんだ一本。
ラベルに「山口人の酒。」と書かれているところに製作者の気合いを感じます。

帰宅してネットで検索しても『澄川』ではヒットせず、詳細がわかりませんが、おそらく下記酒造のお酒でしょう。

社名  :株式会社澄川酒造場
代表者 :澄川 宜史
所在地 :山口県萩市大字中小川611番地
代表銘柄:東洋美人

同社の酒造は萩ではなく、どちらかというと益田に近いところにあるようで、マップによると同酒造のすぐ近くに田万川が流れています。

どんな表現が適しているのかわかりませんが、とても美味しいお酒でした。
メニューに東洋美人もあったのですが、「品切れです、すみません」とのこと。残念。

日本海の幸とよく合いました。
8120103
童門冬二 『小説 河井継之助』
童門冬二著
『小説 河井継之助』
(人物文庫)

kawaitsugunosuke

河井継之助
1827~68 越後(新潟県)長岡藩(牧野氏七万四千石)家老。
長岡城攻防戦で負傷陣没、41歳。

巻末の紹介文は次の通り。
「革命的な藩政改革により長岡藩を蘇らせ、独創的な発想によって官軍、中央集権化に杭し、局外中立、武装中立を夢見た越後の雄、河井継之助の士魂と苦悩に立ち向かった劇的な生涯を現代の視点から捉えたベストセラー小説。」

<感想>

河井継之助が「幕府も朝廷もなく、有能な日本人によって新しい政権を作るべきだ」と述べていたのは、井伊直弼が桜田門外で暗殺された1860年くらいで、後に勝海舟や坂本龍馬が共和制を唱える数年前のこと。
長崎で外国船や外国人、外国文化に触れた継之助は、攘夷が不可能であることを悟る。
資金力を高めて外国製の武器を購入、力を高めることが長岡藩の生きる道だ、と藩政改革に乗り出して、成功させた。

この小説を読み進めていくと、これからの日本のあり方に対する考え方、その実践において、河井継之助がとった道と薩長土肥の志士達のそれに共通点は多いことがわかる。
仮に河井継之助が長州に生まれて、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文等と出会っていれば、あるいは伊藤博文や井上馨と一緒にロンドンへ留学していれば、そこで意気投合したのではないか、と考えてしまう。
が、結局最後は薩長と戦うことを決断し、敗北して命を落とすことになる。

第三者から観れば、ある意味で似た者同士、と思われる両者が、何故、対決することになったのか。
河井継之助は、「自分の利益を追求せず、民のことを考えるのが王道」、「自分の利益のみを考えて天下を取るのが覇道」だとして、長岡藩は、あるいは自分の生き方は王道でいく、と決めた。
薩長と戦った理由は、戊辰戦争後の流れから外堀を埋められた、つまり友好関係にあった会津藩等東北の勢力が薩長との対決姿勢を強めていた、という時代的背景が一つ。(継之介には「それは関係ない」と否定されるかもしれない)
そして、これが主のそれであるが、薩長が継之助のもつイデオロギーと反していた、要は「薩長は王道ではなく覇道」と解釈したからで、自分の正義及び理想、つまり王道を貫くには、その反対勢力と戦わざるを得なかった、ということになる。

では、薩長は本当に「覇道」なのか。
確かに薩摩藩は世渡りが上手く(と思われ)、情勢に応じて、いずれ倒すことになる幕府側の会津藩と組んで長州藩を叩き(八月十八日の政変・1863年)、その後、度々叩くのだが、今度は長州藩と手を組んで討幕軍を編成する等、「覇道」と思われてもおかしくないフシがないわけではない。
また、薩長が行った朝廷を巻き込む複雑な政治工作が、「覇道」を強く印象付けさせたのかもしれない。
しかし、「覇道」と断定出来るだけの十分な情報を継之介が持ちえていたかどうか。
もっとも、継之介にとって、情報量は問題ではなく、自身の中で白黒はっきりつけた段階で、もう十分だったのだろう。
「覇道」と断定した決め手は客観ではなく主観であったといっていい。

長岡藩は徳川サイドの藩であり、「主人に忠誠を尽くす」魂が身体の中枢を流れている河井継之助が、関ヶ原の恨みをはらそう、と二半世紀思い続けてきた薩長(と継之介は考えていた)の志士と接点を持つことは難しい状況にあったと考えるのが自然かもしれない。
しかし、先の述べたように、同じ思想を持つ同志に出会っていれば、また違う歴史が展開された可能性があると思いたい。
例えば勝海舟とは世代的にも近く(継之助より4年先輩)、酒を飲みかわしながら、面白い会話が成立していたのではないか。
あるいは、この頃、薩長同盟の成立に貢献した坂本龍馬は既に他界していたが、仮に生きていたとして、西郷隆盛と河井継之介を仲介していたとしたら、どのような化学反応が起きていたのか、と考えると想像が膨らむ。

明治新政府内で大久保利通と、あるいは西郷隆盛と激論を交わす河井継之介の様子を司馬遼太郎の描写で読んでみたい。
継之介は征韓論に賛成するのか、それとも反対するのか。
あるいは、そもそも徳川が新政府に参画しないという段階で、継之介がその場にいようとするかどうか。

さて、司馬遼太郎は河井継之助について、次のように表現している。

・・・私はこの『峠』において、侍とは何かということを考えてみたかった。

・・・ここで官軍に降伏する手もあるであろう。降伏すれば藩が保たれ、それによってかれの政治的理想を遂げることができたかも知れない。が、継之助はそれを選ばなかった。ためらいもなく正義を選んだ。つまり「いかに美しく生きるか」という武士道倫理的なものに転換し、それによって死んだ。挫折ではなく、彼にあっても江戸期サムライにあっても、これは疑うべからざる完成である。継之助は、つねに完全なものをのぞむ性格であったらしい。

・・・栄涼寺の継之助の墓碑はその後、何者かの手で打ちくだかれた。無隠(継之助の弟子)は晩年までしばしば栄涼寺を訪ね、墓碑が砕かれているのを見つけては修理し、
「あの男の罪ではない。あの男にしては藩が小さすぎたのだ」といっていたという。
英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい。
山口を旅する~萩~
旅行初日の後半、三日目に萩を散策。

幕末の長州藩といえば萩、書物に登場する人物は吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文、山縣有朋、他大勢。
文章の中で想像を働かせるのはどうしてもその限界があるが、実際に史実が行われた場所を訪れると、色々と発見があり面白い。

<発見1>
吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文、山縣有朋らの家が、どこを基点にしても全て徒歩30分圏内にある、ということ。
自分の目と足でその距離感を体感出来たことは、幕末史を考える上で大きな収穫だった。
久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎は10分圏内(街の西側)、吉田松陰と伊藤博文も10分圏内(街の東側)、山縣有朋がその真ん中、少し南側に住んでいた、というイメージ。
この距離感というのは、人間関係を作る上で、それが絶対的な要素ではないにしても、結構重要なファクターになるのではないか。

萩城下町を一通り歩いてみた。
ところどころに当時の景観が残されている。
今のように電話やメールがない時代だから、連絡を取ろうと思えば、直接会いに行く、ということになる。
志士達(特に松下村塾の双璧と言われた高杉晋作と久坂玄瑞)が日常の生活の中で、行き来して、日本の夜明けについて、熱く語り合っていた情景が目に浮かぶ。

<発見2>
伊藤博文が初代の内閣総理大臣となる際、三条実美等、立候補者は他にもいたが、
「これからのトップは赤電(外国から送られる英文で書かれた電子レター、赤い色に印刷されていた)が読めないと駄目だ」
という話になり、山縣有朋が
「それなら伊藤しかいないだろう」
と推して決まった、らしい(事実関係は不明)。
桂太郎旧宅を訪れた際に、受付係りの年配女性が教えてくれた。

この年配女性の長州人に対する想いはなかなかのもので、徳川慶喜について
「あの人は、部下が残っているのに先に大阪から逃げたわけでしょ。何と言うか、気合いが入っていないと言うか。萩の人はそんな人は一人もいないから。」
と、あたかも最近起きた身近な出来事のように語っているのが面白かった。

<発見3>
萩から4人の内閣総理大臣を輩出している、ということ。
伊藤博文(生まれは現在の山口県光市)、山県有朋、桂太郎、田中義一。
明治時代の総理大臣は、維新からの流れで薩摩藩と長州藩出身が多いというのは想像出来る。
特定の都市別で考えると、歴代総理大臣を排出している最多の都市は萩ではなかろうか。
文献をパラパラとめくれば出てくるのだろうが、これまで総理大臣輩出地を特定都市で意識したことはなかったので、意外な発見だった。

参考:明治時代の総理大臣の出身。
伊藤博文  山口県
黒田清隆  鹿児島県
山縣有朋  山口県
松方正義  鹿児島県
大隈重信  佐賀県
桂太郎   山口県
西園寺公望 京都府

訪れた場所は次の通り。

1)萩城跡
関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は、中国地8か国の領地を削られ、周防、長門の2か国に移封された。
萩城跡は毛利輝元が1604年に竣工。
防府、山口、萩の三か所が候補地だったが徳川幕府の意向を伺い萩に決定。
1863年に第13第藩主、毛利敬親が藩府を山口に移転するまでの260年間、政治の中心地だった。
明治7年に天守閣、居館を解体。
8130167

2)旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
1856年に建てられた代表的な武家屋敷長屋。
厚狭に封地を持つ分家毛利氏(毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利家の一門)の萩屋敷。

3)萩博物館
幕末資料多数展示。

4)北の総門と繁沢家
城下から三の丸に入る城門として設置。
高杉晋作が上司である繁沢家へ向かうために度々通っていた。
高杉晋作誕生地は写真手前側。北の総門より徒歩5分。
繁沢家は北の総門の向こう側、総門より徒歩1分。
8140183

繁沢家
8140181

5)高杉晋作誕生地
高杉晋作誕生地は萩城城下町(国指定史跡)にあり、周辺は今も江戸時代の地図がそのまま使えるほど町筋がそのまま残っている。
8140188

6)桂小五郎旧宅
生まれてから1852年に江戸に出るまでの約20年を過ごした家。
高杉晋作誕生地から徒歩3分。
8140194
8140192

7)旧菊池屋住宅
長州藩(萩藩)御用達の豪商。江戸時代前期建築。
藩主が幕府の要人を接待する場所(幕府巡見使の宿)としても使われていた。
このなまこ壁沿いの道を100~200m進むと高杉晋作誕生地がある。
8140186

旧御成道(参勤交代の際、大名行列が往来したメインストリート)沿いの入口
8140195

8140184
「-略-
 さらには長州人のもつ品のいい軽快な美意識を存分に感じた。日向性の高い庭園をふくめて屋敷の構造を抽象化してゆくとき、そのまま長州藩というものの藩財政の機構を感じ取れるのではあるまいかということも思った。
 さらに、いま感ずることは、たまたま代々の菊屋家の努力で遺されてきたこの造形世界こそ、長州という地域性をはるかに離れて、日本人のさまざまな分野の意識史を感得する上でかけがいのない遺産ではないかということである。~司馬遼太郎~」

8)旧久保田家住宅
旧御成道(参勤交代の際、大名行列が往来したメインストリート)を挟み、旧菊地屋住宅と対面に位置する。
幕末から明治時代前期にかけて建築された町屋。
呉服屋から酒造業に転じた、と伝えられている。

9)田中義一記念碑
第26代内閣総理大臣。
8140187

10)久坂玄瑞誕生地
久坂玄瑞の嫁は吉田松陰の妹。
高杉晋作誕生地から徒歩10分。
8140200
8140201

付近の街路
8140202

11)旧萩藩校明倫館
1862年に土佐勤王党の武市半平太の手紙を久坂玄瑞に届けるために萩を訪れた坂本龍馬もここで剣を振るった、と言われている。
高杉晋作誕生地から徒歩10分。
8140178

12)山縣有朋誕生地
高杉晋作誕生地より徒歩20分。
8140204

13)野山獄跡
吉田松陰や高杉晋作が投じられた。
8120098

14)松陰神社&松下村塾
50㎡ほどの小舎で、8畳の講義室、10畳のひかえの間、1坪の土間部分から成っている。
わずか2年半の間ではあるが、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文、山縣有朋、山田顕義、品川弥二郎、前原一誠ら、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てた。
桂小五郎は松下村塾の門下生ではなかったが、長州藩の藩校である明倫館で兵学教授であった松陰に学んだ。
8140227

15)吉田松陰誕生地&吉田松陰の墓
高杉晋作の墓も隣接。
吉田松陰は、この小高い丘の上から、この風景を眺めていた。
8140223

16)伊藤博文旧宅
生まれは現在の光市。
1854年から1868年に兵庫県知事に赴任するまで、ここを本拠とした。
17歳の時、吉田松陰の門(ここから松下村塾まで徒歩5分)に入り教育を受ける。
高杉晋作誕生地より徒歩30分。
8140218

隣接して東京から建物ごと移された伊藤博文別邸がある。
伊藤博文が明治40年(1907年)に東京に建てたもので、ここへ、玄関、大広間、離れ座敷の三棟を移築した。
内部は資料館も兼ねており、伊藤博文の生涯を写真とともに紹介している。

17)桂太郎旧宅
1847年生まれ。参考までに桂小五郎は1833年生まれ。
「10代くらい遡ると先祖は一緒みたい」と受付係の年配女性談。
幕末期の四境戦争に参加し、凱旋後は明倫館に入学。
戊辰戦争に参加。
明治3年(1871年)にドイツへ留学、普仏戦争におけるドイツの圧倒的な勝利を見て、帰国後は日本の軍隊をそれまでのフランス式からドイツ式に改め、軍隊の近代化に貢献した。
また人材の育成にも力を注ぎ、1900年に現在の拓殖大学である台湾協会大学を創設。
第11、13、15代内閣総理大臣。
最初の組閣時の1902年に日英同盟を締結。
萩の生んだ3人目の総理大臣(①伊藤博文②山県有朋③桂太郎)。4人目は田中義一。
この旧宅は、桂太郎が少年時代を過ごした地に、明治42年(1909年)に建設された。
8140212

18)旧湯川家屋敷
桂太郎旧邸に隣接した藍場川(人工の川)沿いにある武家屋敷。
川の水を屋敷内に引き入れて風呂や食器洗い等の生活用水として使っていた。
その水は再び藍場川へ帰っていく。
8140211
8140207

19)大照院
毛利家の菩提寺。
訪問した8月13日は年に一回の万灯会(7千本~1万本のロウソクに灯をともす、毛利家墓所で墓前供養)が行われていた。
8130173

参考情報。長州藩出身者以外も含む。

1809年生まれ エイブラハム・リンカーン、島津斉彬
1815年生まれ 井伊直弼
1817年生まれ 島津久光
1819年生まれ 阿部正弘
1823年生まれ 勝海舟
1824年生まれ 大村益次郎
1825年生まれ 岩倉具視
1827年生まれ 河井継之助、山内容堂
1828年生まれ 西郷隆盛
1830年生まれ 吉田松陰、大久保利通
1833年生まれ 桂小五郎
1834年生まれ 江藤新平、前原一誠、近藤勇
1835年生まれ 岩崎弥太郎、福沢諭吉、井上馨、松方正義、土方歳三
1836年生まれ 坂本龍馬、榎本武揚
1837年生まれ 三条実美、板垣退助、徳川慶喜
1838年生まれ 大隈重信、後藤象二郎、中岡慎太郎、山縣有朋
1839年生まれ 高杉晋作
1840年生まれ 久坂玄瑞、黒田清隆
1841年生まれ 伊藤博文
1844年生まれ 陸奥宗光
1847年生まれ 桂太郎