2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
桜@平和記念公園
昨年は比治山公園と植物園に桜を観に行きました。
今年は平和記念公園へ。

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平和記念資料館は次男にはちょっと難しかったかな。
「爆弾はじいじが(長男と)同じ歳の時に落ちたんだよ。」

少しずつ勉強していこうね。
毘沙門天@広島市安佐南区
先週末、緑井にある毘沙門天を訪れました。

参道から多宝塔を目指して山道を進みます。
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小汗をかきながら30分で多宝塔に到着。
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塔の内部はこんな感じになっています。
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多宝塔から緑井のフジグラン、スカイステージ、太田川流域方面を望みます。
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「むっちゃ綺麗だね。」
子供達は山歩きの魅力にちょっとずつ気付きはじめたようです。
山よりもショッピングモールの方が好きだという家内もここは気に入ったらしい。

『広島・緑井権現山にある「毘沙門天」は、須彌山(しゅみせん)の中腹におられて仏法をお守りになる四天王の一人で「多聞天」ともいい、北方の守護神です。 現在の毘沙門天堂は1065年頃、現在地に修業僧教尊が行基菩薩の作といわれる毘沙門尊像を安置したのが始まりです。

正安元年(1299年)毘沙門天を尊信していた武田氏は銀山城中築城の時、北方の守護として僧覚信坊により願成寺を建立、さらに三京、豊用、西明、東明、光林、玄道、神宮の七ヶ寺を建立しました。その後、毛利氏の広島城築城とともに願成寺は広島に移され、毘沙門堂・仁王門・東明・西明寺のみ残されました。

境内には一千年の歴史を物語るかのように、聖観音像・福石・縁結び岩・七福神石像・修業大師像が現存し、商売繁盛・縁結びの福の神として、中・四国はもとより、広くその信仰を集めています。本堂には、御本尊毘沙門天と共に脇侍として吉祥天、並びに禪尼師童子の御尊像をお祀りしてあります。
(毘沙門通り商店街のホームページより)』
日御碕灯台&出雲大社
日御碕灯台
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灯台最上階からの眺望
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周辺を散策
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出雲大社へ
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出雲そばコロッケ!!!
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「割子そば」と「釜揚げそば」を楽しんでから広島へ戻りました。
松江城@島根県松江市
3連休の最終日。
松江と出雲を巡る旅に出かけました。
家内のメインは出雲大社とのこと、自分のそれは宍道湖のしじみです。

早朝5時半に出発して、約3時間で松江城に到着。
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松江城ホームページよりその歴史を紹介します。

関ヶ原の戦い(1600年)の後、功績により戦勝徳川方家臣の「堀尾吉晴」「堀尾忠氏」親子が24万石で出雲・隠岐の太守となる。

堀尾吉晴(ほりおよしはる)
尾張の国生まれ。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代に仕える。
姉川・長篠の合戦・備中高松城水攻め・山崎の合戦等で活躍。
遠江浜松12万石を拝領、後に嫡子忠氏に譲る。

堀尾忠氏(ほりおただうじ)
浜松城城主で、関ヶ原の合戦の戦いでは家康に従い功績をあげた。

堀尾吉晴、忠氏親子は広瀬の月山富田城に入府。
※前城主「吉川広家」は岩国へ転府

新たに築城場所を松江とした。
•築城場所選定中1604年(慶長9年)に忠氏急死(27歳)。
•忠氏の遺志を継いで亀田山(かめだやま)に1607年(慶長12年)からあしかけ5年の歳月をかけ築城。
•1611年(慶長16年)に竣工。完成数カ月前に吉晴公死去(69歳)。孫の三之助(忠晴)(13歳)が城主となる。

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天守閣最上階から宍道湖を望みます。
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苔が綺麗だね、と次男談。
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松江名物という「ぼてぼて茶」。狩りの際にとった軽食、とのこと。
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宍道湖で獲れたしじみを使った「しじみ汁」と「しじみご飯」。
ほとんど子供たちに食べられてしまいました。
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ここから出雲大社へ向かいます。
郡山城を訪れる
毛利元就の居城として知られる郡山城は、戦国期最大級の山城として知られています。
江戸幕府のとりつぶしにあい、今はほぼその姿はありませんが、本丸跡、残された石垣など、ところどころに当時の様子を垣間見ることができます。

朝8時に自宅を出発して、一時間ほどで郡山城址の駐車場に到着しました。

以下、司馬遼太郎著『街道をゆく~芸備の道~』(初版1983年)の記述に合わせて写真を紹介します。

安芸の吉田町は、はじめて見た。しかし、ながいあいだ想像していたとおりの町だった。

安芸吉田は江戸期以前の城下町だが、豊臣政権の末期に毛利氏がいまの広島市に近世的な沿海城郭をきずき、新城下町を町割りして大挙(町人まで)それへひっ越したために吉田は毛利氏にとって旧都になった。

その毛利氏が関ヶ原の敗戦でその巨大な領土をとりあげられて防長二州へ転じたあと、一時、広島城に福島正則が入り、福島家が幕府にとりつぶされてからは浅野家が入り、安芸・備後四十二万六千石を領して江戸時代をすごし、明治維新にいたった。これがために毛利氏の旧城府であった吉田はかつて毛利氏の本城であった郡山の城址を擁しつついよいよさびれ、付近の農村のために日用の商品を提供する程度の小ぶりな町でありつづけ、いまもその姿を維持している。

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安芸吉田の町に入って早々、宿には入らず、そのまま通り過ぎて、町の北部に盛り上がっている郡山城址に登ってみた。

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郡山は、吉田盆地の平場から測って高さ200メートルほどの山で、全山が石英斑岩でできている。
山頂に、本丸と二の丸の平坦地がある。

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(略)

元就以前の毛利氏は、一時期、尼子氏に属していた。尼子氏は毛利氏の帰属を確実にするため、毛利家臣に工作して、元就以外の者を当主にさせようとした。元就はその謀略の枝葉を断ち切ったが、しかし根である出雲の尼子氏を正面から敵にまわすわけにゆかず、この間、芸備(いまの広島県)における勢力拡大に心をくだいた。

(略)

元就が、郡山という山を全山要塞化したのは、この芸備という小さな池でかれが泳ぎ回っていた右の時期であろう。さらにかれは西方の大内氏と結び、尼子氏からの圧迫が強くなるにつれて、大内氏への帰属の関係を濃厚にした。

ついに尼子氏が、吉田の元就を攻めつぶすべく三万という大軍を南下させた。天文九(1540)年のことである。

元就が毛利家を相続して17年後のことで、この間、尼子襲来という最悪の事態に備えるために、この周到すぎる男はあらゆる手を打っていた。
その基本方針のうちさらに基調をなす要素は、領民撫育と一郷団結主義であった。
元就の領民撫育は徹底していて、のちにかれが山中の一基の墓になってしまったあとも、吉田のひとびとにお墓さんと懐しげにいわせるようなものをもっていた。
かれの元来の所領3000貫は、まことにせまい。かれが農民の顔をぜんぶ知っていたとしてもふしぎではないほどにせまいのである。
(いっそ農民と一緒に)
という思想が最初から元就にはあった。農民に対して領主と運命を共有する意識をもたせることであったが、このことはたとえ思いたつ者がいてもじつにむずかしい。
ただし当時は江戸時代とちがい、兵農が分離していなかった。農民はいつでも武士になれたし、現に農民は武器をたくわえていて、団結すればそのまま武装勢力になりえた。このため、兵農の身分差が江戸時代のようではなく、農民たちを、領主がその気になれば身分として見ず、人間として見ることができた。

元就は、尼子の大軍が来襲したとき、領内の農民とその家族をことごとく郡山城のなかに収容してしまった。
このことは、かれの撫育策が御為ごかしでなかったことをあらわしている。
このときの元就の戦略は、まず郡山という山城に、さざえがふたをしたようにして閉じこもることであった。来襲群が野を焼き、民家を焼く。やがて冬が来て疲労する。
その間、かれが臣札をとってきた大内氏から援軍を仰ぎ、その到着とともに尼子軍の労を打つというもので、このやり方意外に、弱小の領主が、山陰・山陽の兵をこぞってやってくる尼子氏と対抗する法がなかった。
元就は、郡山城主になったときから、この型を考えつづけてきたにちがいない。
(そのためには、農・商と一つにならねばならない)
ということを、最初は手段として功利的に考えたのであろう。その手段が、功利性をふくんだままやがて元就の基本的な政治思想になってゆき、山陰・山陽を覆う勢力になってからも変わらなかった。

元就の墓は郡山城址の西北の峰のなかにあり、西南のふもとからのぼってゆく。

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(略)

江戸期、毛利氏が防長二州に移されると、ひとびとの記憶からこの城はいよいよ遠ざかった。
その後、島原の乱(1637~38)のあと、幕府は、将来、似たような不測の事態がおこって叛徒が古名城に拠ることをおそれ、郡山旧城の石垣などいっさいをとりこわさせ、まったく廃墟になった。

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以上、司馬遼太郎著『街道をゆく~芸備の道~』より引用。

1540年、尼子氏の三万の軍勢はこの山(左が青山・標高370m、右が光井山・標高367m)に陣を構え、1541年の正月ころまで約4か月間、ここで郡山合戦が繰り広げられました。
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明日はどこへ出かけようかな。