2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
日本と仏教~司馬遼太郎著『この国のかたち 一』より~
奈良で歴史を学ぼうとすれば、仏教、寺、仏像といったところは避けて通れません。

ところが戦国時代や幕末と比べると、何となく地味な感じがするためか、あるいは登場人物の素性がイメージしにくいためか、これまで
「その辺りは引退後にゆっくり楽しめばいいや」
と考えていた
―――のですが、近畿圏に生活基盤を移したことで環境が一変。

そうなると大きな幹の部分では最低限の理解をしたうえで、国宝や重要文化財といわれる建物や仏像を自分の目で確かめたほうがいいだろう、と数年ぶりに司馬先生の『この国のかたち』を手に取りました。

以下、司馬遼太郎著『この国のかたち 一』より。

本来の仏教というのは、じつにすっきりしている。
人が死ねば空に帰する。教祖である釈迦には墓がない。むろんその十大弟子にも墓がなく、おしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏教的なのである。
仏教においては世間でいう〝霊魂″という思想もなく、その〝霊魂″をまつる廟をもたず(釈迦廟などはない)、まして〝霊魂″の祟りをおそれたり、〝霊魂″の力を利用(?)したりするなどといった思想もない。
幽霊というものも、本来の仏教には存在しない。ここで、
「霊魂も怨霊も幽霊も祟りも、仏教の教義として存在しない」
といいたいところだが、ざんねんながら仏教には一大体系としての教義がないのである。
キリスト教やイスラム教のように、預言者がコトバをもって説いた宗教(啓示宗教)なら教義が存在する。
ところで、本来の仏教には神仏による救済の思想さえない。解脱こそが究極の理想なのである。
解脱とは煩悩の束縛から解きはなたれて自主的自由を得ることである(そういうことが凡人に可能かとなると、話は別になる。解脱など、百万人に一人の天才の道ではあるまいか)。
ともかくも、本来の仏教はあくまでも解脱の〝方法″を示したものであって、〝方法″である以上、戒律とか行とか法はあっても、教義は存在せず、もし存在すれば解脱の宗教とはいいがたい(教義を読んで解脱できれば、こんなラクなことはない)。

ヨーロッパにおける宗教改革(新教の勃興)は十六世紀だったが、日本は十三、四世紀の鎌倉時代がそれにあたる。
鎌倉仏教はその後の日本人の思想や文化に重大な影響をあたえるのだが、その代表格はなんといっても親鸞における浄土真宗(教団の成立は室町時代)と、禅宗にちがいない。禅宗はともすればあいまいになりがちだった仏教を、本来の解脱的性格にもどした点で、まことにかがやかしい。
これに対し、浄土真宗は〝本家離れ″(?)してキリスト教に似た救済性をもった。

(中略)

仏教は、飛鳥・奈良朝においては、国家統一のための原理だった。『華厳経』は宗教的というより哲学的な経典で、その経典を好んだ聖武天皇が、この経典に説かれている宇宙の象徴としての毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ、大仏)を尊び、「国の銅(あがね)を尽くして」鋳造した。天平感宝元年(749年)、この天皇が東大寺大仏の前で「三宝の奴」とみずから規定して拝跪したことほど、奈良朝における仏教と国家の関係を感動的に表現した光景はない。

平安初期に根づいた天台・真言は、体系としては魅力的なものだったが、王朝貴族たちはこの二つの体系に対し、本来の仏教をもとめず、現世利益をねがう祈祷(本来の仏教にはそういうものはない)をせがみつづけ、天台・真言もそれに応じつづけたために、高度な宗教性をうしない、鎌倉の新仏教に光彩をゆずらざるをえなかった。
平城京と唐招提寺
平城京と唐招提寺を訪問。

七世紀~八世紀に関しては、時代背景的にそれほど大きな興味を持ったことがなく、わからないことだらけ。
なので、司馬先生の著作である『この国のかたち』を読み直して即席で知識を詰め込んだうえで、世界遺産の訪問にのぞみました。

以下、『この国のかたち 三』から引用。

<唐招提寺>

天平の世、東大寺唐禅院に住んでいた唐僧鑑真(688~763)が、退隠のための寺(唐招提寺)をおこすべくあちこちを歩き、この地にきて土をなめると甘かったという。
地名を尼ヶ辻という。
鑑真が土をなめて尼かったという甘が尼になったという説がある。

いまも、境内にははいれば別天地のおもいがする。高野山のヒノキでつくられた南大門をくぐって、屋根の両端に鴟尾(しび)をあげた金堂をあおぐと、心が天平の世になえるような気がするのである。
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金堂の裏にまわると、さらに古格を感じさせる。そこに講堂がある。無愛想なほど実用的なこの建物は、じつは唐代の役所そのものといっていい。
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奈良の都(平城京)は、長安に模してつくられた。この講堂は平城京の朝堂院だったのを、鑑真が唐招提寺をおこしたとき、下賜されたものなのである。
だから長安の方鱗を見たければ、唐招提寺にゆけばいい。

朝堂院は、平城宮にあったころ、内裏の南にあり、十二棟おなじような建物が配置されていた。
奈良朝時代の日本の人口は、五、六百万ほどで、その国務事務がこの建物でとられていたのである。官吏の人数はざっと一万人で、その家族や使用人の総和がこの都市の人口だった。二十万人程度だったといわれている。
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<平城京>

この巨大な都は、710年にできた。
範とされた七、八世紀の大唐長安の都は、世界最大の帝都であった。国際都市でもあった。
(中略)
平城京には、そんなにぎわいはなかった。
姿こそ世界帝国の首都に似せたとはいえ、右のような経済的背景はなく、国民経済も貧弱で、一歩郊外に出れば、地面に竪穴を掘っておおきなわら屋根をかぶせた住居が点在していた。

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重要なのは、この時期、唐風の律令の世がはじまっていたことである。
律とは刑法のことであり、令とは、行政法のことである。
その前世紀までは、日本の実情は統一国家というより、津々浦々の諸豪族の群立状態だった。
豆腐をかためるのに、ニガリが要る。
そのニガリの役割を、律令制が果たした。
日本全国に律令という大網を打ち、農地という農地、人間という人間を律令国家がまとめて所有し、統一国家が成立したのである。
まことにふしぎなほどで、この間、軍事力が用いられることなく、地方々々はその権利を放棄した。
(中略)
律令国家は、一面からみれば、ひとびとにとってつらいものだった。班田収授によって一定の耕地が農民に平等に貸しあたえられる。国家は平等に租税をとる。租税のほか、公用のための労役もある。
要するに、人を個別的に、かつ人身まるごとに国家によって所有されるのである。所有されるほうにとっては、つまらない制度で、生存するほか、私権というものがなかった。
―――唐も新羅もそうなのだ。これが、文明だ。
といわれれば、二の句がつげなかったろう。もっともそのように説得したという記録もない。

ついでながら、律令国家は、奈良時代七十余年が最盛期であった。
平安時代になってくずれはじめ、やがて東国を中心に武士という反律令的農場主が勃興し、ついには十二世紀末、鎌倉幕府というぎわめて日本的な政権が誕生する。これによって律令の世は事実上ほろぶのである。日本史が、中国やこと朝鮮と体制を異にしはじめたのは、鎌倉の世からであり、そのことは、以前にものべた。

話を、奈良の都にもどす。八世紀初頭に平城京という大都市ができたものの、都市としてはまったく孤独なものであった。
他に都市がなかった。同時代の唐は県城などの無数の都市が積みあげられてその最頂点に長安があったのにくらべると、まことに貧寒としている。
平城京そのものが大博覧会における飾り建物(パビリオン)に似ていなくもなかった。くりかえすが、経済的土壌の上に成立した都市ではなかったのである。

ここでふとおもうのだが、律令制というのは沈黙の社会主義体制だったといっていい。
沈黙というのは、社会主義につきもののやかましさがなかったということである。マルクスの社会主義であれ、ナチによる国家社会主義であれ、あるいは戦前の日本軍部による統制主義であれ、ひとびとを説得したり、〝思想″によっておどしつけるための空論や空さわぎの演説が必要だったが、日本古代の律令制にはそういう音響がなかった。
なにしろ日本の七世紀末から八世紀の社会には多様性がなく、一望、農民や採集生活者だけだったのである。
それに日本語が未成熟であった。いわば生活言語で、抽象的な―――たとえば、国家や社会についての―――ことを論ずることはできなかった。
まことに『論語』に出てくる「之ニ由ラシムベシ。之ヲ知ラシムベカラズ」(泰伯篇)の民であったため、ととびとは季節をうけいれるようにしてうけいれざるをえなかったのだろう。

地方の豪族についても、この点、かわらなかった。
かれらには律令制による位階があたえられた。五位や六位にしてもらったり、子弟が都の官人に挙げられたりするだけで、自分の私地私民が公有されるのをこまぬ手を操いてみていたのである。律令制は、反乱も討伐も演説もデモもなく、しずかに進行した。
(中略)

以上、のべてきたのは、古代、律令制施行という"革命"が進行するについて、圧倒的に効果があったのは、平城京の建設だったということをいいたいためである。
その荘厳雄大さに、地方にいる者たちは胆をつぶした。ひとびとはおどろき、おそらく謀叛気までも挫かれてしまったはずなのである。
おかげで、全国統一が実質的に成就した。建設についての出費などは、安いものだったのにちがいない。巨大建築群が、国内政治に圧倒的な力をもった好例といえる。

生駒山へ
近鉄生駒駅から日本で最初に作られた?というケーブルカーに乗って生駒山へ。

宝山寺駅で山頂駅行に乗り換えますが、途中下車して駅名になっている宝山寺を訪れます。
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江戸時代に宝山湛海律師(ほうざんたんかいりっし)が創建した現世利益の祈願寺、とのこと。
地元では「生駒の聖天さん」と呼ばれているそうです。
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宝山寺駅からゆっくり歩いて30分ほど登った高台から奈良方面を見渡します。
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お賽銭を入れてお願い事をして、来た道をてくてくと戻りました。

宝山寺駅から再びケーブルカーで生駒山頂へ。
山頂は遊園地になっていて、1~2時間ほど遊んで生駒駅へ戻りました。

『るるぶ』を買ってきたので、これから奈良、京都を楽しんでいきます!
新生活スタート!
関西に移り住んで怒涛の2週間が過ぎました。

なかなか走り込んでいる感がありますが、「24時間365日戦えますか状態に置かれている」けどキラキラしている人生の先輩がいますので、もっともっと走り込んでしまおう!と思ったりしている次第。

写真がないのも味気ないので広島時代に撮った一枚を。
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