2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
司馬遼太郎が描く幕末・明治人物群像~乃木希典~
1849~1912 陸軍大将、日露戦争時旅順攻略第三軍司令官、学習院院長。明治天皇大葬の日殉死、63歳。

・・・乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるため、つねに自分を悲壮美のなかに置き、劇中の人として見ることができた。自分の不幸に自分自身が感動できるというのは、どういう体質であろう。

・・・乃木と伊地知は、なおも二○三高知に攻撃の主眼を置こうとはせず、頑固に最初の強襲攻撃の方針をすてず、連日おびただしい死を累積させつつあり、そういう乃木や伊地知のすがたは、冷静な専門家の目からみれば無能というよりも狂人というにちかかった。

・・・(児玉源太郎は)乃木の半生をながめるに、乃木ほどその性格が軍人らしい男はなく、同時に乃木ほど軍人の才能に乏しい男もめずらしい。それに乃木ほど勝負運のわるい男もめずらしい。

・・・ついで五日、乃木大将をして永久に歴史にとどめしめた水師営の会見が行われた。・・・乃木のその詩的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったろう。かれによって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。

・・・「・・・旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長年日ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ・・・臣ガ終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ・・・」
自分の屈辱をこのように明文して奏上する勇気と醇気は、おそらく乃木以外のどの軍人にもないであろう。
「これが乃木だ」と、(児玉源太郎は)その畏敬する友人のために賛美した。
「王師百万強虜ヲ征ス 野戦攻城屍山ヲ作ス 塊ヅ我何ノ顔アッテカ父老ヲ看ン凱歌今日幾人カ還ル・・・」
二条城と金閣寺へ
台風が来ているので家でおとなしくしています。
長男は宿題を、次男はブロック遊びをしているので、自分はゆっくりと京都見学をまとめています。

さて。

9月の中旬、宇治の丸亀製麺で期間限定の肉盛りうどんをその期間最終日に食べた後、いとこの皆で京都へ。

まず向かったのは最後の将軍、徳川慶喜が大政奉還を行った二条城です。
大政奉還が行われた部屋などを見学。
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大政奉還に至るまでの話を山内容堂(土佐)サイドの視点で著した司馬遼太郎著『酔って候』から紹介します。

五か月経った。
高知城下の散田屋敷に起臥しつつ天下の形勢をうかがっていると、寵臣の後藤象二郎が京からいそぎ戻ってきて、容堂に拝謁した。
――薩長はどうやら討幕戦をくわだてているようでございまする。
と後藤はいった。
「聞きおよんでいる」
と、容堂はにがい顔でいった。いまさら土佐藩としてはどうすればいいか、わからない。日本第一の勤王主義をもって任ずる容堂としては、かれらの敵にまわるのは、いやだった。かれらはきっと「勤王」という名目で討幕軍をおこす。その敵にまわれば歴史のつづくかぎり山内容堂は「朝敵」になるではないか。
かといって、徳川氏は討てない。関ヶ原の恩を仇でかえすなどは、この男のもつ詩人感覚がゆるさないところだった。
京にいるとき、乾退助が江戸からやってきて、容堂に面をおかして諌めた。薩摩が討幕軍をおこす、というのは、この退助からきいた情報である。退助はすでに「過激志士」として容堂のみえないところで、薩摩の西郷や大久保などと秘密の会合をもっている。
「ご決意あそばせ」
と、退助はいったのだ。「このままでゆけば、今信長をもって自任あそばす殿は、ついに島津、毛利の門に御馬を繋がせられることに相なりまするぞ」
帰国後、容堂は、あれこれ考え、ほとんど狂気したくなるほどに苦しんでいる。
「妙案がござる」
と、後藤象二郎がいった。
「妙案?」
容堂は、期待しなかった。この二律背反をすくう案など、神をもってしても考えられないことであろう。
が、後藤は自信をもって言った。
「慶喜公に大政を奉還せしめることでございまする」
「えっ」
と叫び、容堂はひざを打った。なるほど、慶喜を説いて大政を朝廷へ奉還させてしまう。されば薩長は力のやり場にこまり、討幕の理由をうしない、そのため徳川家は永久に保存される。さらに後藤は懐中から一枚の書きものをとりだし、その一箇条ずつを朗読した。
「大政奉還後、京都に上下議政局設け、議員(公卿、大名と有力家臣)を置く。すべてその公議によって万機を決する」
といったたぐいのもので、すべて八箇条にわかれている。
「後藤、よくぞ考えた」
と、容堂はうわずった声で叫んだ。「その案がよい、その案で徳川氏も救われ、新政権もできる。無用の国内戦もない。その八策をもってわが土佐藩の提案としよう」
土佐藩がそれを提案する。提案することによって薩長に牛耳られているこの風雲の土佐藩の位置が大きく飛躍する。乾退助が心配する「薩長の門に馬を繋ぐ」心配もなくなるであろう。
「妙策じゃ。――」
と、後藤をほめちぎった。
後藤は、にこにこしていた。かれはこの風雲解決の天才的な提案が、一介の土佐脱藩の郷士坂本竜馬から出されたものだ、ということを口をぬぐって言わなかった。
竜馬は、郷士の身分だから、容堂に献言する資格はない。だから後藤にその案を語り、後藤をして語らしめたのである。
「ありがたし」
と後藤は竜馬の手をにぎり、自分の功として容堂に献策した。もっとも容堂に竜馬の名前をいったところで、かれはそんな卑賤の郷士の名を記憶もしていないであろう。
「おれはすぐに京にのぼる。そちは先発せよ」
と、容堂はせきたてるようにいった。
後藤は藩船空蝉のともずなを解いて浦戸港を出船し、京に入るや、坂本竜馬と協力して必死の奔走をはじめた。
将軍慶喜は、二条城にいる。後藤は老中板倉伊賀守、若年寄永井玄蕃頭を通して建白すると、意外にも慶喜は諒承した。すでにかれ自身が、幕府が日本政府としての機能をうしなってしまっていることを知っていた。むしろ、政権という重荷を投げだしてしまいたくなっていた。
慶喜は、後藤が京に入って九日目に朝廷にその旨を奏上した。ただちに勅許され、政権は朝廷に移った。
慶応三年十月十四日であった。奇妙な偶然がある。薩長がひそかに宮廷工作をして徳川討伐の密勅降下を潜行運動し、それが西郷の手に渡ったのも、この日である。朝廷ではあわてて討幕の密勅をとり消した。
薩長は、出端をくじかれた。
「容堂め」
と、薩摩の大久保が歯ぎしりをしたのは、このときであった。大久保は挙兵のときに用いる錦の御旗まで秘密裏に作成している矢さきであった。
ついに薩長も土佐藩の主導に従わざるをえなくなった。その主導権は、一ㇳ月つづいた。一ㇳ月目に、坂本竜馬と中岡慎太郎がその宿館で名も知らぬ刺客に襲われ、斃れた。
容堂は、その名も知らず事実さえ知らなかった。このふたりを喪った瞬間、土佐藩が薩長から孤立してしまっていたことを知ったのは、維新後である。

二条城を見学した後、金閣寺へ。
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これから様々な幕末スポットを巡るのが楽しみです。
次男の運動会!
年少組は「ハム太郎」がテーマなんだって。
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吉野川と千早川
五条駅(奈良県五條市)近くの吉野川河川敷で開かれた地域の祭りに行きました。

ここで長男が「やな漁体験(鮎のつかみ取り)」に参加。
次男は「怖い怖い」と及び腰。。。
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鮎は塩焼きにして頂きます。
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吉野川は関西屈指の急流で、川下りをするには申し分のない面白さがあります。
自分は20年近く前に上流から4~5時間かけて漕ぎ下り、ちょうどこの河原でフネを上げました。
子供たちが中学生になるまでは一緒に漕ぐのは厳しいかなあ。

鹿肉は全く臭みがなくて美味しかった。鉄分が多くて体がいい、そうです。
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柿ごおり!!!
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この後、金剛山の麓を流れる千早川の釣り堀へ。
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釣り上げたニジマスは塩焼きと唐揚げにしてもらいました。
「自分で釣った魚は美味しいね!」
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次回は金剛山を散策してみたいと思います。