2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
司馬遼太郎が描く幕末・明治人物群像~福沢諭吉~
1834~1901 明治時代の啓蒙思想家。慶応義塾創始者、豊前国中津藩士の次男。緒方洪庵の適塾に学び、幕府遣米使節、遣欧使節随員。67歳没。

・・・この乱(西南戦争)については、乱の直後からさまざまの解釈がおこなわれています。・・・ところが当時もっともハイカラな人とされていた福沢は、文明論の立場から、西郷とその郷党の士族たちを是認したのです。明治10年秋、戦争が西郷の敗北でおわった直後、『丁丑公論』という論文を書きます(発表は二十余年後)

・・・政府の有志専制を防ぐ方法はただ一つ「抵抗あるのみ」「乱の原因は政府にあり」と福沢は断言します。・・・“武士の心と生活”というものを、政府は“賊”としたことを、福沢は国家百年のために惜しみ、かつ心を暗くしたのです。

・・・<福沢は>“個人の独立があってこそ国家の独立がある”と考えていた。つまりは、勝海舟や坂本竜馬が考えた国民国家の樹立ということでした。

・・・福沢は、日本には国民国家ができあがる芽はないと絶望し、慶応4年(1868)私塾(慶応義塾)を開いて若人を教えることに専念したのです。

・・・福沢は、「独立とは、自分で自分の身を支配して、他によりかかる心がないことをいう(『学問のすすめ』)といいます。
「猿にでもわかるように書く」という明晰さが福沢の文章論でした。それだけに『丁丑公論』の文章はいっそう痛烈でした・・・。
伊賀へ
忍者がいるところに行こう、と三重県の伊賀上野市へ。

レンタルした忍者の衣装を着ると長男も次男も一気にテンションが上がったようで、忍者になりきり低い姿勢を保ちながら、城がある公園内をずっと走り回っていました。
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伊賀の忍者、と言うと何となくフィクションの世界のような感じがしていたのですが、司馬作品を読んで、その大まかな歴史的背景を知ることが出来ました。

司馬遼太郎著『覇王の家』より。

(家康の接待を受けた十一日間の凱旋旅行から)安土に帰った信長は、羽柴秀吉が担当する中国攻めと、あらたに丹羽長秀に命じた四国攻めの軍務のために多忙であったが、しかし家康への返礼をせねばならぬとおもった。
(中略)
上方を本拠とする信長としては、家康とその老臣たちを京にのぼらせ、京見物と堺見物をさせることによって返礼したいとおもった。信長自身は京の古典文化には関心が薄かったが、三河の田舎衆にはよろこばれるであろう。堺には信長の大好きな新興の南蛮文化がある。
―――近々に安土に参られよ。
と、信長は家康に別れるときにそう言い残したが、家康のほうも駿河を拝領したお礼に参上せねばならない。その日取りも、双方の使者たちがきめた。
信長が安土へ帰ってほどなく、家康が遠州浜松を出発した。五月十一日である。
(中略)
琵琶湖の湖東の安土城下に入ったのは、五月十五日である。家康のために設けられた宿館は、大宝坊という寺であった。
この大宝坊の段階において
「徳川どの接待」
という役目を信長から命ぜられたのが、明智光秀である。
(中略)
光秀は接待役を命ぜられてからわずか三日目に、それを罷めさせられた。
「それがし、にわかに主命があり」
と、光秀は大宝坊まで断りにきた。
家康は内心おどろき、なにごとかあったのかと思ったが、どうも事情がわからない。
が、じつは平凡といえばいえる事情であった。備中(岡山県)にいる秀吉から、
―――毛利の本軍が出て来そうです。
という旨の急使が安土城にとどいたのである。信長は勇奮し、みずから馬をすすめるべく返事をしたが、まずかれがゆくにしても先発軍を出発させねばならない。いわば信長がじかにひきいるべき軍団をさきに備中に発しておかねばならない。その軍団長に信長は光秀をえらんだ。織田家の五大軍団のうち光秀とその軍団だけが目下手持ちであった。
「日向(光秀)はすぐゆけ」
と、信長は命じたのである。このため光秀は接待という日常の業務から解放され、作戦へ動員された。事情とはそれだけであった。
(中略)
さて、接待である。
光秀が作戦行動へ入るべく居城の坂本に帰ったあと、織田家の五人の長官はもう一人も安土にはいない。(中略)信長が直々接待するほかなかった。
信長はそれをやった。
(中略)
家康は、京において織田家の接待をうけ、そのあと堺見物をすべく下向した。堺に入ったのは五月二十九日であった。
(中略)
六月一日の夜、明智光秀は大軍をひきいて丹波亀山城を発した。この日、堺では家康は富商今井宗久にまぬかれ、茶ノ湯の供応をうけていた。堺は茶ノ湯の中心であるだけにそういう招待が多い。この夜は、松井友閑屋敷で、百燈をともして幸若の能が興行され、さらに小庭の燈籠の灯を賞でつつ、友閑から夜の茶をふるまわれた。
やがて六月二日の朝があけた。この未明、すでに信長はこの世にない。
が、家康は知らなかった。この日の予定は堺を発ち、京へのぼり、本能寺に泊まっているはずの信長に接待の御礼を申しのべるつもりでいた。
家康は早朝、堺を出た。
(中略)
(信長の死を聞いた)家康は、小川へずり落ちそうになった。(中略)そのとき、元来冷静な性格のもちぬしとおもわれているこの男が、人変りしたほどに取り乱し、目も頭も晦乱して形相までかわった。
(中略)
(家康は)復讐を思い立ったものの、それはやっとその言葉を思いつくことによって自分を絶望から救い出そうとし、気力を鼓舞してみただけで、さしあたってこの言葉そのものに重い意味はない。それよりもこの危険な上方地域からどう脱出するかである。
(中略)
あたらしく京都のぬしになった光秀は、家康のゆくえを躍起になって捜索していた。家康は殺すべきであった。(信長との同盟者である)家康が生きていればかならず自分の敵手にまわることを光秀は知っているし、それに家康の東海三国というのは、家康を殺すことによって即座に崩壊する。家康には、成人した子もいなければ、あとを相続できる弟も存在しないのである。
(中略)
家康は、逃げつつある。
かれが上方脱出への出発点とした淀川畔の枚方(北河内)という土地は大阪から京へのちょうど中間にあたる。この川港から家康らは真東へ走った。
(中略)
このあと、かれらは伊賀境の山中に入り、さらに甲賀の山中を抜けたが、この伊賀・甲賀では家康は安全に通過することができた。
本来、他の者ならこの伊賀で落命するところだったであろう。伊賀は中世を通じて難国といわれ、小さな地侍が村々にいて槍を研ぎ、他国に事あれば戦かせぎに出かけ、しかもかれらは国中では団結がつよく、戦国期を通じて地侍連合のような組織ができ、その組織で一国を自治でおさめ、他から国司や大名が入ってくるのをふせいできた。信長はそういう伊賀の人情を憎み、その晩年、伊賀に大軍を入れ、村々や山々に籠るそれらの連中をいちいちすりつぶすようにして虐殺し、国中に死体の山をきずいてようやく国中を織田政権統治下に置いた。
そのとき、織田勢から追われた伊賀者の多くが三河へ逃げ、家康の保護をもとめた。このとき家康は織田家への遠慮もあり、
―――見て見ぬふりをしよう。
と、この亡命者たちの保護についていっさいをかれの武将の一人である服部半蔵正成にまかせた。
服部半蔵は、いわゆる徳川十六将のなかにかぞえられ、鬼半蔵と異名された。天文十二年のうまれだから、家康より一歳下である。
―――半蔵は、伊賀からきた。
と、家中ではいわれているが、この半蔵の代にきたのではなく、半蔵の父の服部石見守保長のときに三河に流れてきて、家康の祖父の清康に仕えた。それも、京から流れてきた。
「石見守」
というような、家康の祖父のころの松平氏の家来としては仰々しすぎる官命がついているのは、この保長がかつては京の足利将軍家(義晴)の側近で、京侍だったからである。室町幕府は衰弱していたとはいえ、幕臣の官位だけは高い。ただし、官位だけで、将軍からは禄は貰っていない幕臣で、保長は窮乏のあまり、田舎の新興勢力の松平氏をたよって流れて行ったのにちがいない。
出自は、伊賀である。
伊賀では源平時代から服部姓の武士が多く最初は平氏に仕えて重んぜられ、あと源氏に仕えた。戦国期になると、この姓の者が続党を組み、伊賀北部の村々に居住して他勢力と対抗していたが、服部保長の家はその本家であったから足利将軍家に出仕したにちがいない。三河に流れてきてからはよく働き、その子の半蔵にいたっては槍も強く戦場の進退もたくみで、家康が年少のころから参加したすべての合戦に半蔵は従軍し、一戦ごと武功をたてた。服部家は徳川譜代とはいえ、遠く伊賀からきたということは伊賀連中も知っており、半蔵を頼ってその従士になる者が多かった。伊賀者は他国の情勢に通じ、戦場の諜報にも長じ、便利なことが多かった。
例の織田信長の伊賀攻撃のとき、それをのがれて多数の伊賀者が家康をたよったが、その亡命者を家康はこの服部半蔵にあずけた。
「伊賀同心」
といわれ、戦場諜報や、戦場の放火、敵の後方攪乱に任じた。同心というのは。「徳川直属の足軽で、ある武将の管理下にある者」というほどの意味である。
そういうことがあるため、伊賀の地侍たちは、
「徳川殿には、伊賀者は恩義がある」
ということで、いま家康が上方を脱出して伊賀路まで潜行してきたことを知ると、この連中は、
「この伊賀までのがれて来られた以上は、もはや安心とおぼしめせ」
と口々に言い、村々に使いを走らせて人数をあつめた。むろん、侍といえるような連中ではなく、平素はわずかな畑を耕したり、他の農家にやとわれたりする農夫で、戦いがあると野伏のたぐいになって野稼ぎをしたり、どちらか一方に雇われて敵陣を荒しまわったりする連中ばかりであった。そういう手合いが二百人ほどあつまってきたとき、家康も内心おどろき、
(一体、この連中を信じていいものか)
と、おもったが、しかし酒井忠次や石川数正がうまく懐柔した。
「いずれ、服部半蔵を通じ、お召出しがあるだろう」
と、約束した。この約束は、家康は帰国後、すぐ履行した。徳川家の正規の呼称として、
「伊賀者」
とよばれるグループがそれで、後年幕府が安定すると、かれらの使いみちがないため、江戸城内および幕府所管の空屋敷の番人にした。ついでながらこの徳川家臣団のなかでの最下層のこのグループが、寛政年間、大名や旗本のあいだで系図をつくることが流行したとき、
―――自分たち伊賀者の祖先は、武士のなかでも特殊な軍事技術をもっていた。
ということを書き物にしたりして、それによって彼等の仲間うちで伝承されてきた伊賀流忍びの術についての内容やら怪奇譚やらが、世間に知られるようになった。
家康はこの連中のおかげで、ぶじ伊賀・伊勢(ともに三重県)を通過し、伊勢の海岸まで駆け出ることができた。家康は終生、
「伊賀越えのときは」
と、このときの苦難を語ったが、ともかく道もない山を駆けたりして伊勢海岸にたどりつくまでの四昼夜というものは、家康はほとんどねむっていない。

以上、司馬遼太郎著『覇王の家』より。

忍者屋敷ではからくりを見たり、実際に体験してみたりして子供達は大喜びです。
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伊賀上野城は、徳川家康が上記の「伊賀越え」をした時点ではまだ造られていません。
伊賀上野城のリーフレットより以下紹介。
「天正13年(1585)、伊賀の国を領した筒井定次(つついさだつぐ)が三層の天守を築き、北に表門を構えた。豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者としての地位を確立するに及んで、慶長13年(1608)、定次を失政を理由に改易、藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治城から移り、自ら縄張を指図、本丸を30mの高石垣で囲み、筒井古城を大拡張した。しかし竣工直前の五層大天守は、慶長17年(1612)9月2日の暴風雨で倒壊、そのうち大阪夏の陣で豊臣方が滅亡したので城普請は中止され、城代家老が執政することとなった。」

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子供達が予想以上に喜んだので、別途、甲賀にも行ってみようと思います。
牛タン、ハラミ、ツラミ、センマイを刺身で@鶴橋