2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
鳥取城と鳥取県立博物館を訪問しました
山城である鳥取城とそのふもとに建てられた鳥取県立博物館を訪問しました。

「鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)にある日本の城(山城跡)である。国の史跡に指定されている。
久松山城ともいわれ、中世城郭として成立、戦国時代には織田信長の家臣であった羽柴秀吉と毛利軍との戦いの舞台(中国攻め・鳥取城の兵糧攻め)となる。江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り近世城郭に整備された。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残すのみとなっている。(ウィキペディアより引用)」
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まずは博物館から。
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歴史民俗展示室では旧石器時代から江戸時代までの郷土の歴史を紹介しています。
その中でも後醍醐天皇の南北朝時代、毛利家の台頭、豊臣秀吉の兵糧攻め、関ヶ原の戦い以降の統治に着目して見学しました。

二度の鎌倉幕府討幕計画に失敗した後醍醐天皇は隠岐に流されます(1331年)が、脱出して反撃にうってでます。
そして幕府軍を倒して吉野(生駒から車で一時間半)を都としました。
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応仁の乱(1467年)以降、戦国時代へ。
1560年以降、この地を支配していた尼子氏は毛利氏に敗れて衰退。
毛利氏は羽柴秀吉の二度に及ぶ侵攻(1581年、1582年)に合い、支配権を失います。
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毛利方の吉川経家は羽柴秀吉に包囲されます。
毛利方が青、羽柴方が赤。
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関ヶ原の戦い(1600年)後は徳川方の大名が領国経営に着手。
1617年に池田光政が城主となり、以後、池田氏が支配しました。
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鳥取城へ。
ここは城跡で、今は石垣が残っているだけの姿になっています。
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当時の姿はこんな感じです。
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二の丸跡まで登ってみました。
秀吉軍に眼前を全て包囲されている吉川経家と、1617年にここに入った池田光政ではさぞかし見える景色が違ったことでしょう。
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ところで
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「ふるさと」「春が来た」「もみじ」「おぼろ月夜」等を作曲したのは鳥取市出身の音楽家のようです。
岡野貞一という名前は知りませんでしたが、これらの童謡が同じ人によってつくられたと知ってびっくり。

夕食は帰りの特急の中で鳥取名産品である蟹、とうふちくわを楽しみました。
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大恩寺@愛知県豊川市
愛知御津(あいちみと)駅(豊橋駅から東海道本線で二つ目の駅)から15分ほど歩き、徳川家とゆかり深い名刹、大恩寺(この山の麓いあります)を訪れました。
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大恩寺は正式名を御津山浄土真院大恩寺といい、寺伝によれば、敏達(びたつ)天皇の時代に百済の僧恵灌(えかん)により創建されました。
はじめは新宮山にあって浄光院と称しました。室町時代には廃絶に近い状態でしたが、下総国弘経寺(くぎょうじ)の僧了暁(りょうぎょう)が新宮山大運寺として浄土宗の寺となりました。
その後、了暁の弟子勢誉(せいよ)は、徳川氏の菩提寺である岡崎大樹寺(だいじゅじ)を開いたことから、松平氏の保護を受け、松平親忠が現在の地へ移しました。
さらに、家康の父松平広忠のとき、徳川家に大恩ある寺として、御津山浄土真院大恩寺と改名しました。
牛久保牧野家の菩提所としても栄え、域内には徳川・牧野・戸田・岩瀬・菅沼・旗本・柴田等の墓もあり、由緒の深さを物語っています。
(豊川市観光協会ホームページより)

寛文12年(1672)大垣城主戸田采女正が建立した山門。
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戸田氏の室は牧野氏の娘ですので、牧野氏菩提寺たる当寺に寄進したものとみられています。
かなり規模も大きく、地方の山門建築として代表的な遺構です。
(豊川市観光協会ホームページより)

大恩寺から御津山へ登りかけた斜面より三河地区を望みます。
徳川家康も同じ風景を見たかどうか。
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三河の山奥にある、とのことですが、松平家発祥の地にも訪れてみたいです。
富山の白エビ
昼食@富山駅前ビル
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夕食@サンダーバート大阪行
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古川智映子著『土佐堀川~広岡浅子の生涯~』
古川智映子著
『土佐堀川~広岡浅子の生涯~』
潮文庫
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主人公である広岡浅子についての記述を潮文庫のウェブサイトから紹介します。
「京都の豪商油小路三井家(三井十一家の一つ)に、六代目三井高益の娘として生まれる。幼いころから、三井家の祖先高俊の妻で、商いの才覚に長けた「殊法大姉様」の血が流れていると言われて育ち、後の女性実業家としての活躍を予感させた。大阪の両替商、加島屋広岡家に嫁ぎ、自ら先頭に立って商いの道に邁進。筑豊の炭鉱事業、銀行設立、大同生命設立と大仕事を成し遂げた後には女性への高等教育の普及、廃娼運動などにも尽くしていく。」

大同生命本社ビルを文庫本のカバー絵が描かれているのと同じ方向から撮影してみました。
当時のビルは現在、このように建て替えられています。
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土佐堀川
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土佐堀川沿いにこのまま進めば、淀屋橋、北浜、天満橋へ。
余談ですが、鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は、大阪城から天満へ逃げ、そこから船に乗り大阪湾へ出て江戸へ向かったそうです。
ということは、まさに上の写真の場所を通過した!?

さて。
著者の意図する読み方ではないのだと思いますが、幕末から明治を描いた歴史読本という視点で楽しみました。
今まで薩長の立場や幕府の立場から描かれたストーリーを読んできました。
同著を読んで実業界という別の視点から歴史を俯瞰出来たのは面白かったです。

以下、備忘記録。

●江戸幕府の金策
5代綱吉の時代に幕府の支出が膨らんだ(贅沢が原因?)。
それまで良質の貨幣である慶長金銀が流通していたが、質の悪い元禄金銀を鋳造して、幕府の赤字を埋めようとしたことで、急激なインフレが起こり、経済が混乱した。
幕府はその後も、同様のことを繰り返したが、これでは解決にならないため、豪商からの御用金(豪商が断ることが出来ない幕府からの要求金)調達に頼るようになった。
幕末になり尊王攘夷派の動きが活発になると、幕府はさらに多くの御用金が必要になり、豪商の金も底をつきつつあった。

●近藤勇
長州尊攘派の動きが活発になり、公武合体の薩摩、会津が巻き返して、御所の九門を固め長州を一掃するという事件(蛤御門の変)が起きた。
この前後、新選組の近藤勇が深夜、(主人公である浅子が嫁ぐことになる)加島屋の戸を叩き、血判入りの証文と引き換えに軍資金を調達して帰った。

●幕府と薩長の戦いの裏で
三井は「賭け」をしようとしていた。
幕府が勝つのか、それとも討幕派なのか。
三井の「賭け」とは、幕府側、薩長側のどちらに加担するか(軍資金を提供するか)、という意味で、苦しい台所事情の中、なんとか金のやりくりをして(薩長側に軍資金を提供して)、結果的にはその「賭け」に成功している。

●江戸から明治へ
もし幕府が倒れるようなことにでもなれば、その下にある諸大名の存続はどうなるのか。
浅子が嫁いだ加島屋を含めた両替商は、その諸大名に金を貸し付けているのである。
慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いが勃発。
幕府は敗退し、徳川慶喜は大坂城から海路江戸へと逃れていった。
明治新政府が王政復古を通告。
その後、大阪京都合わせて百三十人の商人が、京都二条城へ集められ、鳥羽伏見の戦いに勝った新政府軍が江戸に進軍するための軍資金提供を求められた。
加島屋はこれまで三井のように「賭け」はしていない。
とても今回の要求を受けられるような家計ではなかったが、金策に動き回り、借金をしながらなんとか新政府軍へ軍資金を提供し、三井より二歩も三歩も遅れて、新政府との結びつきを持つことが出来た。
後に広岡浅子が事業を展開する中で、伊藤博文をはじめ政府関係者の協力を得ることになるが、幕末のこの時期、これを行っていなかったら別の運命になっていたにちがいない。
慶応四年七月、江戸を東の京とするという詔書が下され、江戸城は東京城と改められた。
加島屋の借金先に挨拶にまわり、窮状を訴えて、返済の延期を頼み込むしかない。
広岡浅子は東の京へ向かう。

諸大名は藩札を発行しました。
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●新たな貨幣制度(1)
明治新政府は財源が乏しく、打開策として太政官札を発行。十両、五両、一両、一分、一朱の五種。
国の内外にわかり商取引が盛んになり、通商会社ができ、その資金を融通する為替会社も設立された。
為替会社紙幣が流通するなど様々な貨幣が入り乱れ、貨幣制度は複雑化して経済は大きく混乱した。
こうした中、加島屋は為替会社の頭取、通商会社惣頭取の任命を受け、新時代の経済の主導権が与えられた。

●新たな貨幣制度(2)
複雑な日本の貨幣制度を一つにまとめるために、伊藤博文がアメリカに視察へ。
帰国後、金本位制採用の建議を進め、さらに銀行を設立して、これに紙幣発行の特権を与えようと努める。
廃藩置県令が発布。三府七十二県令が施工。旧藩主は東京に移転し、中央政府から各地方ごとに府知事や県令が派遣され、中央集権体制が出来上がっていった。
明治新政府は藩のこれまでの負債を肩代わりする、藩札は時価の相場で交換する、という救済案を提示。
また加島屋のような両替商が大名に貸し付けた焦げ付き分に対する処置も提示されたが、五十年賦、二十五年賦等、まともには返って来ないような内容だった。
新しい貨幣の単位として、円、銭、厘等が定められ、大蔵省は旧貨と新貨を交換するために兌換証券を発行。
この兌換券は三井が一手に引き受けた。
貨幣制度の改革と併行して、日本にも銀行制度が取り入れられることになった。

●渋沢栄一
広岡浅子は銀行設立や女子大設立等において渋沢栄一からアドバイスや支援を受けている。
渋沢栄一は農家の出で、尊王攘夷運動をするために埼玉から江戸へ。
後、公武合体論に傾き、一橋慶喜の幕臣となる。
慶応三年、慶喜の弟、昭武に随行して渡仏。
明治政府で大蔵省の需要な地位に登用された時、政府諸費の節約を強く主張したが聞き入れられず、官職から実業畑へと職を転じた。
実業界で実績をあげながら教育にも力を注ぎ、東京商法講習所(一橋大学の前身)発足にも寄与している。
一橋大学の建学の祖とされているのは森有礼。
渋沢栄一が資金的に援助した。

●伊藤忠兵衛
明治37年、日露戦争が勃発。
広岡浅子(このとき五十六歳)の夫である広岡信五郎は、加島屋の最盛期を見た上で没した。
前後して近江商人の伊藤忠兵衛(伊藤忠商事、丸紅の創始者)が死去。
伊藤忠兵衛は家訓という観念的な条文を排し、実践第一主義を貫く。
売上金の中から資本の利子を差し引き、残金の三分の一を積み立てる。
残りの三分の二の一つを均等に店員に割り振って与える。
したがって利益は直接店員の給料に響き、経営の一端を担うことになる。
利益を独り占めにするのが当たり前の時代に、使用人の励みになる新しい発想で商いをし、その士気を啓発した。
広島産のお米と野菜
今年も友人が取れたての新米と野菜を送ってきてくれました。
家族皆でワイワイ料理して美味しく頂きました。
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