2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
梅と金柑を買ってきました
ホームセンターで梅の木と金柑の木を買ってきました。
花壇を掘り起し土を柔らかくして、一緒に買ってきた肥料をパラパラとやり、二つの木を花壇の両側にセット。
1397852
1400852

キュウリの種とネギの種を梅と金柑の間に蒔こうとしたのですが、まだ時期が早いとのことだったので来月下旬までおあずけです。
西大寺散策~この国のかたち~
3年生の長男がサッカーの練習をしている間に、年中の次男と西大寺へ。
奥さんは一緒に行かないで自由時間を楽しむのだそうです。
1344630
「天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。それを皮切りに、父君の聖武天皇が平城京の東郊に東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創されたのです。(西大寺ウェブサイトより)」

奈良の寺院を色々と観ているうちに次男が仏像に興味をもちだしたようです。
「(寺に行くのは)パパに付き合ってあげてんねんで。」
とも言うので興味があるような、ないような感じなのだと思いますが。

西大寺創建の経緯に関わる四天王立像(重要文化財)を安置する四王堂
1345630

怖い顔をした四天王像を観ると体をピタリと寄せてきて、毎回のように
「本当はいい神様なんよなあ。守ってくれているんよなあ」
と確認するのは、やっぱりどこかで「怖いなあ」と思っているのでしょうね。

江戸時代再建の本堂(重要文化財)は土壁がない総板壁の珍しい建物
1354630

ところで、西大寺(近鉄線大和西大寺駅)は平城京(近鉄線新大宮駅)のすぐ西側に位置しています。
関西に転勤となり奈良県民となったので、これはラッキー、と奈良の寺院を歩きまわっていますが、どうも京都のそれと雰囲気が異なります。
その謎を解くヒントが司馬遼太郎著『この国のかたち(三)』に記されてあったので、最後にここで紹介しておきます。

司馬遼太郎著
『この国のかたち(三)』
(文春文庫)
konokuni38569874123

奈良の都(平城京)は、わずか八十余年の寿命でおわった。
794年、首都は、すてられた。途中長岡京をへて、いま京都とよばれている地にうつされるのである。捨てるには惜しかったような気もする。
なぜ、すてられたかについては諸説があるが、ここではいちいちふれない。
私は最大の原因は、仏教だったとおもっている。
僧侶が権力の場に横行し、政治どころではなくなったのである。道鏡(?~772)の例をおもえばいい。女帝にとり入り、皇位につこうとさえしたのである。

すこし、ふりかえってみる。
首都が奈良にうつされて早々、遠近から大寺が新首都にぞくぞくとひっこしてきたのである。
大寺の首都集中というべきもので、異常というほかなかった。
ほとんどが、国立の寺院(官寺)なのである。僧は、官僧である。国家公務員である点、官吏とかわらない。というより、官吏以上に国家と人の心をともに支配していた。このあたり、後世の僧というイメージでは奈良時代の官僧はとらえにくい。
もともと、奈良仏教は隋唐仏教を本家とし展開した。隋唐仏教は〝鎮護国家″が大原理であった。である以上、奈良の大寺の僧としては、僧が国家の守護をするのは理念として当然だったし、権利でさえあり、また国家そのものであり、一党独裁の共産党と国家の関係に似ているとおもえばわかりやすい。
おなじ僧でも、平安時代の僧とはありようがちがっていたのである。
奈良時代の官僧たちは、仲間同士でもみあって派閥抗争していた。当然、宮中も政府も、落ちつくいとまがなかった。
ついでながら、当時の平城京(奈良)の大寺というのは、薬師寺、大安寺、興福寺、元興寺、葛城寺、紀寺、東大寺、法華寺、唐招提寺、西大寺、西隆寺などで、せまい首都の内外に僧侶がみちあふれていた。
僧は、もううんざりだ。
などという不将な(?)記録はのこされていない。そんなことを言おうものなら、たとえ天子や高官といえどもただではすまされなかった。

要するに、首都そのものが大寺を置きすてて逃げたのである。それが理由だというのは、記録としてはない。
しかし、あらたに山背(山城)の地に平安京(京都のこと)が営まれたとき、新首都では大寺の造営が禁止された。さらには平安時代を通じ、禁止されつづけたのである。この一事で、なぜ首都が、奈良をすてて京都にうつったのかという理由がわかる。大寺から逃げたのである。われこそは国家原理そのものであるという大そうな勢力から逃げたといえる。

(中略)

ところが、あらたな首都で興った平安仏教は、ちがっていた。
貴族のために加持祈祷はするが、俗権に入りこむようなことはしなかった。
さきにあたらしい平安京に大寺をおくことが禁じられた、ということをのべたが、げんに京に寺が多いではないか、と疑問をもつむきがあるにちがいない。
こんにち、京都で古刹といわれるものの多くは、はるかにくだって豊臣期やあるいは江戸時代に興されたあたらしいものなのである。
たとえば、浄土真宗の総本山の西本願寺・東本願寺は豊臣期から江戸初期にかけて京にうつされたものだし、浄土宗の総本山の知恩院は、徳川家の宗旨寺大伽藍として江戸初期、東山のふもとに大伽藍が興されたものである。
それに、それらのほとんどは鎮護国家というような国家原理にかかるものではなく、個人の安心立命が中心で、要するに信仰中心の鎌倉仏教なのである。

(中略)

ともかくもあたらしい首都の京(平安京)は、大寺が市中にあることをきらったのである。
平安時代における巨大な仏教勢カ-つまり大寺-は、最澄(767~822)がおこした近江の比叡山延暦寺(天台宗)と、空海(774~835)がひらいた紀州の高野山金剛峰寺(墓言宗)だけだった。
平安京がおこした大寺はこの二つしかなかった。しかも、京からは遠ざけられた。
奈良から逃げ出した宮廷は、あたらしい平安京(京都)においてじつに用心ぶかかった。平安遷都早々、桓武天皇は、無名の最澄をぬきん出て、宮廷の僧(内供奉十禅師)とした。最澄の非政治的性格を知っての選び方だったろう。
それに、平安京国家としての最澄の魅力は、奈良仏教にはなかった個人の救済思想をふくむ体系を模索していたことだった。法華経を中心とする思想で、朝廷ではかれを還学生として唐に派遣し、かれが好んだ天台体系をもちかえらせ、比叡山延暦寺をひらかせて、平安京の大寺とした。
つづいて空海が唐から帰朝し、真言宗をひらいた。宮廷ではこの両派を平安仏教の両輪としつつも、その本拠地を遠くへ置かせた。
平安京にあっては、都市形成からして長安の模倣の域を脱していた。
たとえば、平安京の南のはしの羅城門をはさんで、東に東寺、西に西寺が置かれるべく設計されたが、これも脱長安だったといえる。
この場合の〝寺(じ)″はテラではなく、どの漢字辞書にもあるように、本来の意味である〝役所″と解するほうがいい。つまり東寺・西寺という名の国賓用のこうろ官立ホテル(鴻臆寺・鴻臆館)を二棟置くつもりであった。
が、工事がすすまず、ついにはこれ(東寺)を空海にあたえ、かれの私寺とした。
ともかくも、京には官寺が置かれなかった。たとえば京の大刹の清水寺なども平安遷都早々に建てられた寺だが、これは坂上田村麻呂による私寺だったし、おなじころにたてられた高雄山寺(神護寺)も和気氏の私寺であった。
ともあれ、首都が奈良をすてて京にうつったのは、当時としては高度な政治行動だったのである。
NHKスペシャル『司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち』
Yoshiさん(http://miscyoshi.blog87.fc2.com/blog-entry-1141.html)に教えてもらって慌てて録画予約。
1396852
1395852

次回は『この国のかたち(三)』を片手に散策した西大寺周辺を紹介します。
備忘記録(テレビ番組)
危ない危ない、見逃すところでした!

NHKスペシャル
司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち

第1集 “島国”ニッポンの叡智(えいち)
2月13日(土)午後9時00分~午後9時50分
2月17日(水)午前0時00分~午前1時00分(再放送)

第2集 “武士”700年の遺産
2月14日(日)午後9時00分~午後9時50分
2月19日(金)午前1時30分~午前2時20分(再放送)

NHK(Eテレ)
100分de名著「司馬遼太郎スペシャル」
3月毎週水曜日 午後10時00分~午後10時25分<全4回>

NHK(Eテレ)
シンポジウム『司馬作品を語りあおう―今の時代を見すえて』
3月27日(日)時間未定
Joseph Phelps カベルネ・ソーヴィニヨン
ワイナリー:Joseph Phelps Vineyards
種類:Cabernet Sauvignon
年:2006
地域:アメリカ/カリフォルニア/ナパバレー
価格:65ドル
再購入:する

1160412

ジョセフ・フェルプスは1973年の最初の収穫がそのスタート(翌年設立)です。
ボトルを開ける前にネットで調べていて、自分の年齢に近く何となく親近感を覚えました。
堂ワイナリーの最高峰である「インシグニア」は『ワインスペクテータ』誌の2005年版において、「ワイン・オブ・ザ・イヤー」を獲得しています。
口をつける程度しか飲んだことがないので、いつかしっかりと飲んでみたいです。
200ドル強・・・

The first harvest in 1973 yielded Cabernet Sauvignon, Pinot Noir and Johannisburg Riesling bottlings, all custom crushed at nearby wineries. The Joseph Phelps winery was completed in 1974 in time for harvest, crushing grapes for the first Insignia and the first Syrah bottlings. It was a period of unparalleled activity, creativity, ingenuity, entrepreneurship and risk-taking. It put Joe Phelps and his Joseph Phelps Vineyards on the map of top Napa Valley wine producers.

Four decades later, the flagship wine, Insignia, is recognized as one of the world’s great wines. Thirty-one of thirty-seven vintages have been rated 90 or more points by various wine publications, including three perfect 100 point scores for the 1991, 1997 and 2002 vintages from Robert Parker’s The Wine Advocate in Mr. Parker’s Historical Tasting of Insignia report, published in November 2013. The 2002 vintage of Insignia was also awarded “Wine of the Year” by Wine Spectator magazine in 2005.
(Joseph Phelps Vineyardsウェブサイトより)