2年半楽しんだ広島から関西へ。こちらでも同じくらい過ごした頃、どちらのお好み焼きが美味しいか結論を出したいと思います。
司馬遼太郎著『覇王の家』
司馬遼太郎著
『覇王の家』
(新潮文庫)
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巻末より引用。
「徳川三百年――戦国時代の争乱を平らげ、長期政権<覇王の家>の礎を、隷属忍従と徹底した模倣のうちに築きあげていった徳川家康の、俗説の裏に隠された実像を探り、日本人の民族性に迫る。信長や秀吉とは異なった家康の捉えがたい性格を、三河武士団という忠誠心の異常に強い集団との関係で浮彫にし、時の覇者秀吉を実質上破った小牧・長久手の戦いを中心に覇者の条件を探る。」

読み応えのある一冊でした。
司馬史観が「すとん」と腑に落ちた文章を下記に残します。

<1>
信長は、信玄をおそれ、その敵にまわらぬよう、信玄に対し、人間の頭脳で考えられるかぎりの大嘘をつき、つぎつぎにつき続けて信玄を足止めにし、その心を撫でつづけてきた。信長にすればいま一歩であった。いま一歩すれば信長は信玄に対抗しうる情勢と兵力をつくり得るのだが、いまはまだ信玄という虎をその洞窟からひき出してはならない。が、家康は信長からみれば勝手な外交をし、結果としては虎を引きだすはめになった。もっとも、』家康にいわせれば情勢はそうではない。虎自身がかれ自身の意思で出てきたのであり、当方の媚態外交は限界にきていた。これ以上媚態をつづけてはかえって食われるだけであり、このあたりで媚態を一擲して滅亡を覚悟したうえでの決戦の準備をすべきであった。
信長は、結局は家康が作った新情勢に屈せざるをえず、かれはやむなく上杉・徳川同盟に自分も参加した。が、この浜松城移転と対上杉同盟の一件は、信長の家康観をわずかに変えさせた。家康は信長にとって織田圏の東方警備の番犬であるにすぎなかったのが、その番犬自身が多少意志的になり、自分の判断で行動しはじめたのである。ただしこのことは、家康の世評の「律儀」の範囲内でのことであることを、家康は再三信長に言いつづけることをわすれなかった。
「それが、織田家にとって御為になることなのです。もし信玄が押し寄せてくれば、それがしは死力をつくしてふせぎます」
「ふせぐのもよいが」
 と、信長は、家康が、自分の桶狭間のころのような冒険主義になっていることに、頭をかかえこみたいほどに当惑していた。信長にすれば武田信玄に対する冒険はいっさい不可で、いままで築きあげてきたすべてを瓦解させることになる。
「もし武田勢が浜松に押しよせてくれば軽戦したのちに退去し、城を置きすてて岡崎までひきさがるのがよろしかろう。浜松で防戦しても無駄の無駄である」
 と、しばしば人をやって家康に説かせた。家康はそのつど、
「なるほど、そうでもありましょう」
 とか
「よくよく思案つかまとる」
 とか言い、できるだけ顔をおだやかにして力づよくうなずき、言葉だけは曖昧にしておいた。家康の本心は、その場合は浜松城を一歩も退かず、千に一つの勝目もない戦いを滅亡を賭して戦ってみせるつもりであった。この病的なほどに用心ぶかいこの男の性格のどこを押せばこういう常軌のはずれた決意が出てくるのであろう。家康という人間は、どうにも一筋縄では解きあかしにくいことは、すでに触れた。本来、用心ぶかくて守嬰的で功利的なだけの性格なら、ここで武田方に転ぶのが一番であった。げんに、このときの家康の条件と類似の条件下におかれた戦国の武将は無数にいる。かれらはみな武田へころぶという反応をし、目前の危機を脱しているのである。たとえ武田へころばなくても、信長が勧めるように岡崎へ逃げ、さらに尾張へ逃げこんで織田主力に合流し、それでもって戦うというのが普通の反応であった。生来の豪胆さを決してもちあわせていない家康が、右のどの行動類型にもはまらず、意外にも自殺的な行動に出ようとし、げんに出たことが、家康のふしぎといっていい。かればもし英雄であるとすれば、こういう非類型的な不可解な要素をもっていたからであろう。

<2>
(武田勢に負けて浜松城に逃げ帰る際の描写)
その直後、家康はふたたび動転せざるをえなかった。背後で馬蹄のとどろきが沸きおこり、ふりかえると、おびただしい松明が家康のあとを追ってきた。馬場信春、山県昌影の追撃軍であった。家康は一息入れたときだけに恐怖は以前にまして大きく、夢中で駆けだした。
(中略)
家康は城の大手門から入らず、玄黙口といわれる搦手(からめて)門から入った。(中略)よいか、門の内外の篝火をさかんにして昼のようにせよ、門は大きくひらき放つべし、大手門もそのようにせよ、そのように伝えよ、とつぎつぎに命じた。元忠はおどろき、
「それでは敵が付け入りましょう」
 というと、
「彦右衛門(元忠)」
 と、家康は地面を鞭でたたきつつ大声でいった。
「もはやわしが戻ったのだ、敵を一歩たりとも寄せつけるものか」
 大声でいったのは、城兵にそれを聞かせて士気を盛りたてるための芝居であったのだろう。しかしそれにしても敗軍のなかで城門を開け放つというのはおそろしくもあり、戦場で爪を噛んだり、遁走中に脱糞したりする男のできることではなかった。このあたりも、家康の性格の不可解なところであろう。
家康は、城門を解放することによって城兵に退守の気分をすてさせ、もう一度野戦する勢いを持続させようとした。さらにはあかあかと大篝をたいて城門をひらいている光景を敵に見せつけることによって、敵をして一思案させようとした。敵は、家康に計略(はかりごと)があるとおもうであろう。それによってかえって敵は付け入ってこないということを、家康は十分見込んでいた。家康はごく自然な臆病人ではあったが、しかし一面、物事を知恵でもって見込み、あらゆる場合々々の安全の限界を十分に把握することができた。この時代のことばでいう見切りの利く男であった。慄えながらも、見切りの限度内では理性でふるまうことができ、それが傍目からみればときには超凡の豪胆さにみえたのかもしれない。

<3>
(信長の死後、秀吉と対決)
「殿も(織田)信雄さま同様、羽柴(秀吉)と講和をなされますか」
 と、忠次はむしろ妙案のようにいったが、家康は爪を噛み、目ばかりぎょろぎょろ光らせて沈黙しつづけ、やがて、
 ――おれは、せぬ。
 と言いきった。理由はなかった。家康がその前半生においてときどき見せてきた絶望的な思いきりが、このときにも現われた。家康は元来が利害計算のたくましい男であり、その頭脳はつねにその計算で旋回したが、しかし利害計算も及ばぬ絶体絶命の極所に立ち至ったとき、この男は少年のように初々しい自尊心と、少年のように果敢な勇気をきせるのである。(中略)その種のおよそ度外れた勇気が、この男のどこから出てくるのかはわならないが、いずれにしても家康という男の声望をこの戦乱の世間につなぎとめている最大の要素は、過去においてかれが発揮した賭博――とも言いがたき絶望的な、というより自暴自棄にちかい行動――であった。こんどの場合も、それが出た。
「わが五州をかためて、秀吉の来るを待つ」
 と、家康は恐怖で顔を黒ずませつつ、叫ぶようにいった。しかしながらかれの計算能力は、停止していたわけではない。

<4>
(対秀吉の作戦会議)
家康が上段にいて、酒井忠次がその下にひかえている。忠次が、一同に対し、北条衆二十人の連署による誓書を披露した。
 ――隣国でさえ、この事態を容易ならずとおもい、このように使臣をつかわしたか。
 という緊張感が、広間にみなぎった。三河ほか五カ国の衆としては、異例なことながら家康に人質を出して断固として秀吉と戦う決意を表明するしかなかった。
一同、そのようにした。
家康は、下座の談合がすべておわるまで、上座で沈黙していた。
(中略)
やがて下座での談合がきまり、酒井忠次がすすみ出てその旨を報告すると、家康は大きな目をひらきっぱなしにしてうなずき、
「そういうことならば」
 と、要するに総意に圧されて秀吉に対する高姿勢をつづけてゆくことを決意した、予とおのおのの生死とは一つのものぞ、という意味のことをいった。家康のやり方は、』これ以前もこれ以後もこういうぐあいであった。もしかれが秀吉と再戦せねばならぬことがあってもそれはかれ一個が専断した私戦ではない、かれの家来、というより五カ国のひとびとの総意がそれをきめた、家康としてはその総意を執行すべく自分の身を犠牲にするのである、というふうに物事をもってゆき、ひとびとを納得させるのである。ずるいといえばずるいが、ひとの心を結束させるにはこれ以上の方法はないであろう。このやりかたは、かれのひそかに私淑している故武田信玄もとったことがなく、信玄のばあいは多分に英雄的専決をもって事を運んだ。家康は専決をおそれた。独創的資質をもたない家康にすれば、このやりかたは、ひょっとするとかれの独創といえるかもしれない。
司馬遼太郎著『司馬遼太郎の日本史探訪』
司馬遼太郎著
『司馬遼太郎の日本史探訪』
(角川文庫)
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巻末より以下引用。
「独自の史観と、豊かな知識に基づいて、歴史のなかの日本と日本人を見つめつづけた著者が当代を代表する作家や研究者とともに、日本史を彩る事件や人物について縦横に語り尽くす。争乱の時代を生き抜いた名将たち、維新を支えた立役者の群像、時代の先駆けとなって海を渡った人々……それぞれのドラマが、歴史小説の第一人者の視点により、生き生きとよみがえる。」

中之島から北浜を越えて森ノ宮まで2時間ほどかけて散策した翌日。
同著を片手に、梅田から緒方洪庵の適塾を目指して歩いてみることにしました。

御堂筋を南下してお初天神を過ぎたところに、美味しいイタリアンのお店、「サルヴァトーレ・クオモ」が姿を現します。
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http://www.salvatore.jp/

ここのピザには舌がうなります。
自分が食べてきたピザの中でここが一番かな。
二階は生演奏を楽しめる大人な雰囲気。
ビリー・ジョエルのピアノマンをリクエストしたら笑顔で演奏してくれました。
子供たちを祖父母にあずけて奥さんを連れていかないとね。

新地の入り口、三田製麺所を西に曲がった小道には、一口餃子の名店「天平」があります。
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http://www.tenpei.jp/

40代~60代の男4人で250個をオーダー、と言うとびっくりするかもしれませんが、一口サイズなのでペロリ。
メニューは餃子と漬物だけですが、それで十分。
餃子だけを集中して食べたい時に行きますので。
それほど価値のある餃子、と仲間内で話しています。
ゴールデンウィークに家族で行く予定。やってるかな?

もうすぐ淀屋橋。
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淀屋橋から北浜方面へ。
御堂筋を離れ、土佐堀通りと並行に走る裏路地に歩を進めると目的地である緒方洪庵の適塾に到着。
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同著より以下引用。

一つのオランダ語の辞書がある。ていねいに書き写した貴重なものだ。幕末のころ、この辞書を奪い合うようにして蘭学を学んだ若者の一団があった。
彼らは、やがて近代日本の推進者として、欠かせぬ役割を果たすこととなる。大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、長与専斎、これら多くの人材をはぐくんだ適塾。その主が緒方洪庵である。
(中略)
船場北浜、御堂筋のすぐ裏手に、近代的なビルに囲まれ今も残る町屋風のたたずまい、緒方洪庵の適塾は、昭和二十年の大空襲にも奇跡的に焼失を免れ、往時の姿をとどめている。
(中略)
橋本左内が天満橋の橋の下にいる乞食かなんかを、こっそり夜出ていって、診察をしていますね。そういうような親切さと、そのこっそりいって乞食を診察するという雰囲気は、私は、それまでのお医者さんになかったと思うんです。つまり、越前から出て来た医者のむすこである橋本左内は、適塾にはいることによって、医者とは何であるかということを知ったんじゃないかと思います。
ですから、それは左内の偉さというよりも、やっぱり洪庵の雰囲気という方に置き換えてみなきゃいけないのじゃないでしょうか。「医は仁術である」ということを洪庵という人は、最もやかましく言ったというか、実践した人ですね。
(中略)
松陰の塾を、いわば政治運動家を養成した政治塾とすれば、医学・語学を主体とした適塾は、技術教育の塾ともいえましょうか。
だから、人材の幅が非常に広いんです。学者あり、政治家あり、医者あり。ですから、洪庵の塾にはイデオロギーの色がない。もっと風呂敷が大きいわけです。イデオロギーというのは非常に狭いものですからね。

さて。
適塾から南下して本町通りを抜け、堺筋本町へ向かうと、たまにお世話になっている焼肉屋さんが。
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http://syohoru.com/recruit.html

希少部位を美味しく楽しめるので気に入っています。
ピリ辛もつ鍋もとても美味しい。

右往左往しながら谷町四丁目まで歩いて約5km。
朝食を美味しく食べるために、(と言い聞かせて)小腹がすいた状態で就寝しようっと。
大阪歴史散歩(中之島~北浜~森ノ宮)
中之島から北浜を越えて森ノ宮まで2時間ほどかけて散策しました。

中之島の夜景
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その先で福沢諭吉が生まれました。
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肥後橋、淀屋橋を越えて北浜へ。
大阪証券取引所にそびえたつ五代友厚像
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北浜から天満橋方面へ土佐堀通りを進みます。
大阪会議開催の地
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徳川慶喜が大坂城から江戸へ逃げる際にここから乗船しました。
天満八軒家
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日本郵政の支社前に前島密の像を発見。
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革靴で歩き続けてちょっと足が痛くなってきましたが、最後に大阪城を攻めてから帰ろう、と歩を進めます。
たどり着いた天守閣
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この大岩、なんと岡山県から運んできたそうです。
石垣を作るのに10年かかったとか。
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2時間で400キロカロリーほど消費したかな。
実は4月11日からダイエット中。
ビールは飲まず、炭水化物はとらず(夜だけ)、で頑張ります。
富山湾のホタルイカずくし
ホタルイカ漁ももうじき終わり。
刺身を楽しむのならこの時期を逃すわけにはいきません。
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沖漬けは保存出来るので一年中食べれますが。
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清武英利著『しんがり 山一證券最後の12人』
清武英利著
『しんがり 山一證券最後の12人』
(講談社)
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「1997年、四大証券の一角を占める山一證券が突如破綻に追い込まれた。幹部たちまでもが我先にと沈没船から逃げ出すなかで、最後まで黙々と真相究明と清算業務を続けたのは、社内中から「場末」と呼ばれる部署の社員だった。社会部時代に「四大証券会社の損失補填」「日債銀の粉飾疑惑」など、数々のスクープを放った伝説の記者・清武英利、渾身のビジネス・ノンフィクション。」

1997年は自分が社会人になった年なので、山一證券の破綻、記者会見のテレビ映像は鮮明に覚えています。
その少し前、学生時代に数人の若手山一證券マンに会いましたが、挨拶の仕方、話し方、その内容、身振り手振りが全員エネルギッシュで、これが高い志をもったビジネスマン集団か、と惹かれたことを思い出しました。
証券会社の営業は、この当時に主流だった株式販売手数料を稼ぐスタイルから、お客さんの人生プランに合わせて資産をどう守り運用するかというコンサルティングスタイルに変わり始めている、と聞きます。
「人の山一」と言われていた山一證券。
あの時出会ったエネルギッシュな山一證券マンならどんなコンサルティングをしてくれるんだろう、破綻当時はどんな思いだったんだろう、と考えながら壮絶なストーリーを読み進めました。