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カリフォルニアワインを中心にして長いことお酒を楽しんできました。これからはヨーロッパのワインやお酒を楽しむことに軸足を移していこうと考えています。
ヴィートゥコフの丘
1420年にフス派がカトリックに勝利した古戦場、ヴィートゥコフの丘を目指してプラハ市内の散策を開始。

チェコの英雄、ヤン・フス(1369年頃~1415年)は「キリスト教の真理は聖書信仰にある(教会ではない)」と説いて、カトリック教会が発行する免罪符(お金を払って購入すれば罪が免除されるというもの)を批判しました。
1415年に彼は「(カトリックから見れば)異端である」という理由で処刑されますが、その後、フス派とカトリックの対立は激しさを増していきます。
ローマ帝国の時代から現代までずっとそうであるように、政治と宗教は密接に関わり合っていたのですね。
ヤン・フスの影響は、次の世紀になるとルターで知られる宗教改革へと繋がっていきます。

出発点はプラハ・マサリク駅です。
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プラハ本駅近くの大きな幹線道路を過ぎたあたりで住宅街に迷い込んだようです。100年以上前から変わらないと言われるプラハ市街地らしい景観です。
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車では何回か通ったことのある見覚えのあるところに出ました。
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鉄道の線路に沿うかたちでヴィートゥコフの丘を登っていきます。
プラハ本駅方面から貨物列車がやってきました。この辺りは鉄道の撮影ポイントらしく、本格的なカメラを構えた青年、というよりはおっちゃんが2人、3人、、、チェコにも鉄道マニアがいるんですね。
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丘のてっぺんに到着です。
こちらは1950年に除幕されたヤン・ジシュカ騎馬像。高さが9mもある世界トップ10に入る大きな騎馬像とのこと。
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ヤン・フスほど有名ではありませんが、ヤン・ジシュカもチェコで知られる英雄の一人です。
以下、ウィキペディアより抜粋して紹介します。

はじめ没落したボヘミアの小貴族であったが、智勇兼備の人物であったため、傭兵となって次第に頭角を現わす。1410年のグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)にも多くのボヘミア義勇隊に参加してポーランド王国に味方して戦った。
その後、ボヘミア王ヴァーツラフ4世の軍事顧問となるが、この頃ボヘミアの首都プラハでは教会の腐敗を批判する宗教改革者ヤン・フスが活動しており、ジシュカはその思想に心酔していったと考えられる。
1415年、フスが異端の罪で火刑にされると、ローマ教皇や時の神聖ローマ皇帝ジギスムントに対して反感を強めたフスの信奉者(フス派)を率いてカトリック派を攻撃(1419年のプラハ窓外投擲事件にも関わっていたとも言われる)。ヴァーツラフ4世の死後、ジギスムントがボヘミア王に即位するとこれに反抗してフス戦争を引き起こした。
1420年、迫害を逃れてきたフス派の民衆をボヘミア南部の山中に集めて城塞都市ターボルを建設し、フス派の中でも急進派といわれたターボル派を結成した。ジシュカが作り出したターボル派の軍は、信仰に基づく厳格な軍紀とマスケット銃や戦車などの新兵器によって無類の強さを発揮し、ジギスムントの神聖ローマ帝国軍やフス派撲滅のための十字軍も、ジシュカの前に何度も大敗を喫した。
フス派内部には、聖書原理主義に立つアダム派のような過激な急進派から、カトリックとの宥和をはかる富裕層を中心とした穏健派まで、様々なグループが混在したため(ジシュカ自身も1423年ターボル派から距離を置いてオレープ派を結成)ジシュカは対応に苦慮したが、強大な軍事力を背景として諸派を統率。1424年には穏健派との戦いに勝利し、全フス派の事実上の指導者となった。 しかし同年、モラヴィア遠征中にペストにかかり、間もなく死去した。
ジシュカを慕うフス派の兵士たちは自らを「孤児」と称し、ジシュカの戦術を継承してフス戦争を戦い続けた。

昨年8月に訪れたターボルの中心部。ヤン・ジシュカ像です。後に見えている変容教会は17世紀に建てられました。
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教会の上から
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ヴィートゥコフの丘に戻ります。

ここでヤン・ジシュカ率いるフス派は勝利するわけですが、フス戦争はヨーロッパ史最初の火器を使った戦いといわれています。ヤン・ジシュカは手銃や砲を装甲馬車とともに活用する戦術をとり、当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破りました。
織田信長が種子島に伝わった銃を用いて武田の騎馬隊を打ち破った1世紀前の話です。

丘の上から望むテレビ塔。チェコらしい赤屋根が広がっています。
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丘を下ります。
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メトロ駅に向かうために丘の真下を南北に通るトンネルを使います。こちらは南側の出口。
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北側の出口を抜けたらこんな感じ。この道の突き当りがメトロ駅です。
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トンネル出口にはneboj(ネボイ=心配しないで)と書かれています。
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突き当りまでやって来ました。駅前のお肉屋さん。masoは肉という意味です。
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Křižíkova駅に到着。ここから乗っても家に戻れるのですが、メトロ沿いにもう少し歩きます。
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ヴィートゥコフの丘が見えています。
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ハンバーグと書かれたレストラン。お店の前には何人もいます。ハンバーガが出来上がるのが待っているのかな。とても美味しいとか?気になりますがこの日はスルー。
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見慣れた場所に出ました。今回の散策はここでおいしまいです。
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プラハ・べリスラビン駅~プラハ・マサリク駅
Prokopské údolí(プロコプスケ・ウドリ)自然保護公園で山あいを列車が走っているのを見ていたら、どうやら乗り鉄の血が騒いでしまったようです。
その翌週末に、前々からチェコ駐在期間中に乗らなければ、と思っていた路線を楽しむことにしました。

こちらはプラハ中心地に位置するプラハ・マサリク駅とプラハ近郊(西方面)の都市であるクラドノを結ぶローカル線のプラハ・べリスラビン駅。無人駅です。
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時刻表を調べるとプラハ・マサリク駅行きは15:02分発となっています。
日本の鉄道のように時間はきちんと守らないんだろうなあ、と思っていたら何と定刻に到着&出発。失礼しました。

乗降用ドアの近くはかなりゆったりとしていて、車椅子や自転車を利用するお客さんにも優しそうなスペース感です。
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列車の外観からはわかりませんでしたが、乗車するとその車幅の広さに驚きました。
日本の地下鉄やJR在来線より一回り余裕を持たせた、新幹線とほぼ同じ車幅の車両がローカル線に採用されているんですね。

3段ほど階段を上がりコンパートメントへ。コンパートメントと呼ばないのかな。JRでは寝台特急などで個室になっている部分をコンパートメントといっていますね。
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プラハ・べリスラビン駅での乗降客は自分一人でしたが、この車両も貸し切りでした。
座席は左右にそれぞれ2席。新幹線は2席と3席の計5席ですが、この車両は座席が少ない分、通路が広いなあという印象。
座席の幅は日本の鉄道とほぼ同じくらいです。

プラハ・ディビツェ駅に停車。メトロのディビツカ駅とハラチャンスカ駅の間に見えている駅です。
3~4人が下りて行きました。
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プロサッカーの強豪チーム、スパルタ・プラハのスタジアムの裏を抜けて公園沿いを走ります。
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ラピダリウム前を通過。
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ヴルタヴァ川を渡ります。2本ほど向こうの橋をトラムが走っているのかな。
かなたにはプラハ城とぺトシーンの丘が見えています。
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そしてヴルタヴァ川を渡りきるとすぐに人工的に造られた支流が現れます。
こんなところにカヌーのスラロームコースがあるんですね!チェコチームは結構強いそうです。
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終点が近づいてきました。
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プラハ・マサリク駅に到着です。プラハ・ディビツェ駅に2~3分間、停まっていたと思うけど、それも含めて乗車時間は20分弱くらいだったかな。
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今乗ってきた2両編成の列車は一番左側に停まっています。
他の列車は7~8両くらい、それ以上あるのかな。プラハとどこを結んでいるのだろう。
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駅舎はこんな感じです。
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こちらが外観。トラム26番もここまで走って来るようです。写真に写ってるのは6番です。
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最高に楽しいひと時でした!
長距離列車にも乗ってみたいなあ。
Prokopské údolí(プロコプスケ・ウドリ)自然保護公園
近場でどこか散策できる場所はないか、と思いプラハ5区にあるProkopské údolí(プロコプスケ・ウドリ)自然保護公園にやってきました。
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こちらの鉄道駅から散策を開始。
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駅のホームから山道を登っていきます。
ゆっくり歩いて15分くらいかな、丘のてっぺんにあるデヴィーン城跡に到着。
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てっぺんからはこんな展望が広がっています。
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チェコ語の説明を翻訳機能を使って訳してみるとこんな感じになります。
「 1338年以前にテティーンのシュテパンによって建てられ、16世紀に姿を消しました。 17世紀の終わりには、まだ壁の重要な遺跡がありましたが、今日では建物と壁の浮き彫りの輪郭しかありません」

1338年というと、チェコではヤン・フス(1369年頃~1415年)が「キリスト教の真理は聖書信仰にある(教会ではない)」と説いて、カトリック教会が発行する免罪符(お金を払って購入すれば罪が免除されるというもの)を批判した少し前の時代ということになります。

1300年代は世俗(君主)の力がキリスト教の最高権威であるローマ教皇の力をしのぐようになったことから、「教皇受難の時代」と言われています。
これを象徴するような出来事は下記の通り。

1303年、ローマ教皇の権威が低下したことの象徴となったアナーニ事件が起きる。十字軍後に登場したフランス王フィリップ4世が国内のキリスト教聖職者への課税を行った際、キリスト教の最高権威であるローマ教皇ボニファティウス8世は「キリスト教会に課税するとはなにごとだ!」とフィリップ4世をキリスト教から破門にした。ところがフィリップ4世は謝罪しないばかりか、逆に家臣を派遣して、アナーニという場所にいたボニファティウスを襲撃。そしてフランスへ連行して監禁した。ボニファティウスはかろうじてローマに脱出したが、あまりの屈辱により憤死したと伝えられている。

1309年、ローマ教皇がフランス王フィリップ4世の手でアヴィニヨンに移された。1377年までの68年間、フィリップ4世はカトリック教会そのものを自分の監督下に置こうとした。

なお、日本では1338年といえば、室町幕府が開かれた年でした。

丘の先っぽからはプラハ中心部を望みます。遠くにテレビ塔が見えます。
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デヴィーン城跡まで引き返し、丘を南西方面へ下ると、かつて採掘場だったとされる岩壁上部に。
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先っぽまで行くと足がすくみました。奥さんは怖い怖いと言ってここまで来れず。
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立っている場所は黄色で囲ったところです。Google mapはすごいですね。宇宙から撮った写真なんでしたっけ?
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ここからさらに尾根沿いに下っていくと1870年頃につくられた鉄道橋を列車が走っているシーンに遭遇。1時間に1~2本ほどしか通過しないようなのでなかなかレアな写真になりました。
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線路まで下っていきます。
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ここからアップダウンを繰り返してスタート地点の鉄道駅に戻りました。
歩いた距離は5kmほど。
気持ちのいいプラハ散策でした。