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カリフォルニアワインを中心にして長いことお酒を楽しんできました。これからはヨーロッパのワインやお酒を楽しむことに軸足を移していこうと考えています。
石清水八幡宮
3連休最終日に石清水八幡宮へ。
朝起きると庭が真っ白になっていて、サッカーの練習は中止。
なので久しぶりに長男と一緒に家族でお出かけしました。
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石清水八幡宮のホームページより以下紹介。

「〝やわたのはちまんさん〟と親しまれる当宮が御鎮座する八幡市・男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波間の交通の要地であります。また、南北朝時代の大小様々な戦い、羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦などで知られる政治上の重要な拠点でもありました。
男山は都からみて裏鬼門(南西の方角)に位置し、鬼門(北東の方角)に位置する比叡山延暦寺とともに都の守護、国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。
この経済上、政治上、そして信仰上の要の地に御鎮座され、日本を平和と繁栄に導く神として多くの人々に崇敬され、八幡大神様を祀る神社は全国津々浦々に数万社あるともいわれています。
当宮の御祭神は御本殿中央に応神天皇様、西に比咩大神様、東に神功皇后様をお祀りしています。この御本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神(八幡大神)様と申し上げます。」

「平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されました。
天慶2(939)年に起こった平将門・藤原純友の乱の折には、朝廷よりご請願があり八幡大神様の御神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として皇室の御崇敬は益々厚いものとなり、 天皇の行幸や上皇の御幸は、円融天皇(第64代)の行幸以来、実に240余度にも及び、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟とも称されました。」

「八幡大神様は男山に御鎮座され、都の守護神、国家安泰の神として朝廷はもとより広く国民に篤い崇敬を受けてまいりました。
特に清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神様を氏神として尊崇し、その信奉の念は格別で全国各地に八幡大神様を勧請しました。源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名です。」

さて、おみくじを引いたら次男は「吉」でしたが長男は「凶」。
この後、迷って選んだ缶コーヒーは失敗、迷って選んだ昼食のメニューも失敗。
「悪いこと出尽くしてよかったやん」
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楠木正成のお話
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エジソンのお話
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谷崎潤一郎のお話
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そして幕末のお話。
HNK~大河ドラマ~のホームページより引用します。

京都府八幡市に泰然と構える男山は、京の都と大阪を結ぶ要衝でした。
長州藩の幹部たちは、山頂に鎮座する石清水八幡宮に集まり、軍議を開きました。慎重派の久坂玄瑞に対し、来島又兵衛が強硬策を押し通し、御所への進軍が決まりました。
長州屈指の豪傑とうたわれた来島又兵衛。先祖伝来の甲冑(かっちゅう)に身を包んだ姿は、まるで戦国武将のようだったといいます。
軍議のあと、三の鳥居の付近でほら貝が吹かれ進軍が始まりました。その様子は「勇ましくて美しかった」と、当時の神官が記しています。 京に向かった来島の部隊は、いち早く御所に到達。幕府と武力衝突する禁門の変が勃発したのです。

写真中央に映っている山は比叡山。
その手前が京都市街地です。
ここから長州の志士たちは御所(市街地)まで歩いたんですね。
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いつかいつか、と思ってなかなか来れなかったのですが、念願かなってよかったです。
関西生活のノルマをまた一つクリアしました。
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